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40年たっても

突然開いた悲しみのふた
順子さんは亡くなった長男のことを思い出し、ハンカチを握りしめた
 10年ほど前、湖南市の杉山順子さん(61)は小さな新聞記事を目に留めた。赤ちゃんを亡くした家族の集まりが大阪で開かれるという。当時は遅まきながら看護学校に通っていた時期。「どんな集まりなんだろう」と気になった。
 当日、大勢の参加者がつらい体験を順に語っていった。そこで順子さんは涙が止まらなくなった。「ふたが開いてしまった」。22歳のときに長男を亡くしたことが、昨日のことのように思い起こされた−。
 1971(昭和46)年夏。京都市内に住んでいた妊娠32週目のある日、出血があった。かかりつけの助産所の指示で近くの産婦人科を受診したが、自宅アパートに戻ると出血量は増えていた。一晩様子を見ようと、タオルで汗をふきながら、痛みに耐えた。横になる傍らで、夫がうちわであおいでくれた。
 明け方、助産所に行くと、間もなく産気づき出産。かすかな泣き声が一度聞こえた。赤ちゃんはすぐに夫に付き添われてタクシーで病院へ搬送された。順子さんは「病院に行ったら大丈夫」と安心していた。
 生まれたのは男の子で「俊」と名付けた。夫はためらった。理由は後日分かる。体調が回復し、1週間ほどして授乳のために病院に行こうとすると、夫が引き留めた。「実は…」。長男は出生の12時間後に息を引き取ったという。夫はその事実を伏せ、一人で病院や役所でさまざまな手続きをこなしていた。

抱いたこともなく

 順子さんはわが子の死を信じられなかった。一度も抱いたことすらない。だが、今度は夫が「心臓が痛い」と訴えた。「あなたも死ぬの?」。順子さんは夫の体を気遣い、間もなく働きだし、生計を担うことになる。
 その後、長女をはじめ3人の子に恵まれ、子育てに日々追われた。「長男のことにふたをしてきたというより、生活するのに必死やった」と振り返る。
 俊君の出生体重は1600グラムで、死因は無気肺だった。現在の医療水準なら助かった命だろう。
 「あのとき、一晩我慢せずに、ちゃんと病院に行っていたら…。当時は赤ちゃんの死は『なかったことにする』という風潮だった。もっと現実を見つめていればよかった」。40年近くたった今も、悲しみがこみ上げてくることがある。

新生児訪問の記憶

 看護学校に通い始めたのは、子どもたちが就職や進学で自宅を離れたころ。子育てを思い返すなかで、長女の出産直後に助けられた新生児訪問の記憶がよみがえったからだ。
 長女も早産で、未熟児で生まれた。長男との死別直後だから、順子さんは「また死ぬのでは」と恐怖感にとらわれた。子育てに行き詰まっていたとき、保健師が自宅を訪れ、風呂の入れ方などをアドバイスしてくれた。「未熟さがあったから、すごくうれしかった」
 今は、助産師として滋賀県内で新生児訪問を担当している。「お母さんに少しでも子育てを楽しんでほしい」と願っている。
 取材過程で、記者と俊君が同じ年生まれと分かったとき、順子さんがつぶやいた。「そんな気がしたのよ」。年月の重みを感じないわけにはいかなかった。

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 新生児死亡率 厚生労働省の人口動態統計によると、生後4週未満の死亡は、2008年で出生数1000に対して1.2。終戦直後の1947年は同31.4だったが、大幅に減り続けてきた。71年は同8.2だった。

【2010年5月14日掲載】