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日記帳

守ってあげられなかった
中絶後の入院中に書かれた1986年の日記。「読むと悲しくなりますね。思い出します」とアツコさん
 〈私の健康な身体と赤ちゃんを返せ!〉
 9月15日付のページは、ひときわ大きな文字で記されている。京都市東山区のアツコさん(48)=仮名=は、第1子を中絶(人工死産)した1986(昭和61)年の日記帳をずっと保管してきた。
 「書くことで気持ちを落ち着けていたのかもしれないですね」。ページを繰ると、母親の揺れた感情が浮かび上がってくる。
 〈6月9日 風しん抗体検査で256倍〉
 妊娠初期の風しん抗体価検査で、直前に風しんに感染したとみられる価が出た。妊婦が風しんにかかると、赤ちゃんに難聴や心疾患などを伴う可能性が生じる。
 かかりつけ医だった舞鶴市の医師は「産んだらいい」と言ってくれた。ところが、里帰り出産する予定だった京都市内の病院の医師は「中絶しなさい」。夫の両親には強い口調で言われた。「どうしても産みたいなら、離婚してから」。夫も中絶すべきとの意見だった。

理屈じゃない

 〈7月8日 私はどうしてもこの赤ちゃんを産みたい!〉
 胎動も感じられるようになっていた。「おなかの中で動いている赤ちゃんを何で中絶できるの。理屈じゃない」。当時を振り返り、アツコさんは語気を強めた。
 だが、周囲の反対は跳ね返せなかった。妊娠20週となり、病院で処置が始まる直前、公衆電話から舞鶴の病院に助けを求めた。「どうしようもない。おなかにいるのは、命ではなく『石』だと思って頑張りなさい」。主治医の上司の説得にあきらめがついた。
 〈8月13日 あと1時間ほどで焼かれて、何も残らなくなってしまう〉
 耐え難い痛みを経て11日に「出産」したのは男の子。体重394グラム。だが、アツコさんはわが子と対面する機会もなかった。夫や夫の両親らに「ショックが残る」として拒まれた。供養することも「過去帳が汚れる」と許されなかった。
 〈9月11日 1カ月です。こんなに後悔するとは〉
 出血が止まらず、入院が続いていた。やがて怒りは、自分自身へと向けられる。
 〈10月4日 赤ちゃんを守ってあげられなかった。本当にごめんなさい〉
 その気持ちは24年たった今も変わらない。

時で解決しない

 アツコさんはその後、3人の子を出産した。「お産の感動や子育ての喜びも体験した。でも、亡くした子のことは別。一生の後悔です。時が解決することはありませんでした」
 夫に対しても「私と赤ちゃんを守ってくれなかった」。時を経て、不信感は募る。
 それでも今があるのは、周囲の支えがあったから。中絶の後、舞鶴の医師が気遣ってくれ、次の子のお産も担当してくれた。不安が残るアツコさんを「もう大丈夫。自信持って」と励ました。大学時代の恩師は手紙で、身内で同様の事態があったことを打ちあけ、亡くなった子の平安を祈ってくれた。
 「赤ちゃんを亡くした場合の精神的なフォローはもっと用意されてもいい」とアツコさんは実感する。
 終末期医療に目を向けると、死を考えることはタブーでなくなりつつある。治療や最期の過ごし方について、本人が自ら意思を表明し、周囲がそれを見守る。赤ちゃんの死を取り巻く環境も変えることができないか。
 「何より母親の気持ちを優先させるべき。事情があって中絶を選択せざるを得ない場合、母親がどれだけダメージを受けるか、考えてほしい」

【2010年5月21日掲載】