よみがえれ
環境 第9部
小さな変化見逃すな
石田さん夫婦は水俣湾の南にある漁村で暮らしてきた。水俣病が明らかになる前の一九五〇年代、水俣湾に魚が浮き、魚を食べた猫やカラスが踊るような奇異な行動を見せて次々と死んだ。やがて仲間の漁師は生爪をはがすほど壁をかきむしりながら亡くなった。原因不明の奇病といわれた。 五五年、夫婦も発症。三年間、寝たきりの生活を送った。水俣病と認定された。妻は今も足を引きずり、長男は胎児性水俣病で病院暮らしをする。 石田さんは歩けるようになると、けいれんする体をロープで船にくくり、湾外へ漁に出た。水俣病への不安は大きく、魚の買い控えがおきた。七四年、熊本県は水俣病を引き起こした有機水銀の汚染魚の拡散を防ぐため、水俣湾に仕切り網を張った。 ■湾の仕切り網撤去 それから二十四年が過ぎた。熊本県は昨年、「湾の魚の調査で、水銀値の暫定基準値を下回った」として安全宣言を出し、仕切り網の撤去に踏み切った。水俣市漁協も湾内の操業自主規制を解除した。石田さんが心待ちにしていた日だ。 「まず、腹いっぱい水俣湾の魚を食べて、大丈夫ちゅうことを示す。それがわしの仕事たい」。汚染排出源・チッソとの長い闘争や厳しい差別。石田さんは今、よみがえった海を知ってもらうことが「公害の町」への偏見をなくすことにつながると思っている。 水銀汚染の「象徴」の撤去に、市民の反応は平静だった。仕切り網は以前から稚魚が大きな網の目をくぐり抜けるなど効果が疑問視され、汚染魚はチッソの買い上げによってすでに捕り尽くされていたことを知っていたからだ。漁協が心配した魚の買い控えはもう起きなかった。 仕切り網の撤去には疑問の声もある。水俣病被害者の会全国連絡会の中山裕二さん(44)は「暫定基準値を下回ったから安全、と言えるのかどうか。魚介類の継続した監視と住民の健康調査が必要だ」と話す。 一昨年には未認定患者の補償の問題が、政治決着した。でも、水俣の苦しみは終わっていない。 ■問題の構造は不変
高校を卒業して水俣を離れる若者が水俣出身であることを隠し、郷土を誇れないという現実。水俣はチッソの企業城下町であり、水俣病患者への反感も根強く存在する。患者団体はいくつにも分裂し、対立してきた。漁師は高齢化し、漁業そのものの足腰も弱ってしまった。 世界的に知られる公害の原点・水俣病の公式発見から四十二年。イタイイタイ病、第二水俣病、四日市ぜんそく、慢性ヒ素中毒症…。経済成長と軌を一にするように、日本の公害の歴史は繰り返され、大きな犠牲を払ってきた。 水俣病問題にかかわり著書「公害原論」で知られる宇井純・沖縄大教授は「水俣病発見当時、チッソの排水は当時の基準を満たしていた。行政の基準を満たし安全と言われても、化学物質の蓄積が大きな汚染と被害をもたらすことを、水俣は教えてくれた。今、問題になっている環境ホルモンやダイオキシンでも同じ。環境問題の構造は今も昔も変わっていない」と水俣の教訓を語る。 「水俣で最初に猫が変な死に方をした時、水銀汚染に気づいていれば…。身の回りの環境の小さな変化を見逃してはならない」 (第9部 おわり)
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