Kyoto Shimbun 1999.5.26 【京都経済 再生】
第7部 インタビュー 京都企業を解く <1>
 ローム社長  佐藤 研一郎さん

 戦後最悪の不況の中で、これまで成長を支えてきた日本型経営が崩れようとしている。「デフレ危機は脱した」(堺屋太一経済企画庁長官)というものの、不倒神話に守られた大手銀行や大証券会社が次々と破たんし、大企業は過剰な設備投資と過剰人員にあえいでいる。こうした逆風にもかかわらず、経営トップの強力なリーダーシップや高度な生産技術、加えて、保守的で堅実な京都気質を取り込んだ経営で異彩を放つ“京都企業”は、着実に業績を伸ばしてきた。現代産業を担うこれら京都企業のトップにインタビューして、成長の秘密と地域経済再生への道を探った。
 いつも3年先見つめ
 IC時代の到来確信

 ベンチャーは一見、華やかで目立つ存在に見える。しかし、米国のシリコンバレーでも、成功した人の陰で何千という起業家たちが討ち死にしているに違いない。

  「道半ばで倒れる人たちは、みんな途中で自分がいる場所がわからなくなってしまうからではないでしょうか。成功にたどりつくまでに、実はいっぱい分かれ道がある。だから、常に手前で自分がどこへどう走っているのか、客観的に見なくてはいけない。迷路に入らないように、成功する道を選択できるかどうか。そこを乗り越えるのが一番大変なのです」

 たった一人の創業から四十一年が経った。技術革新が目まぐるしい半導体業界で、高収益を続ける創業社長は、過去幾多の分岐点を振り返った。中でも一大転機になったのが会社設立十年目の一九六七年、家電製品向けの抵抗器メーカーから半導体事業への進出だった。米国の学術論文から「IC(集積回路)時代が到来する」と確信し、当時、巨額の開発投資に大手でも二の足を踏むIC事業に飛び込んだ。海外文献の翻訳から始めたIC開発に三年間で成功、七一年に日本企業で初めてシリコンバレーに進出したことが今日の飛躍の出発点となった。

 あわや経営危機

 「先を見る目があったとおだてられるけど、あったのは本を読む目で、三十年先に世の中がどう変わるかは本に書いてある。行き方はいろいろあっても、方向は決まっている。大変なリスクも度胸もいるが、今から振り返ると自分には一本道だったと思う。迷ったという感じはなく、いつも先のことを考えていた」

 しかし、米国進出後も順風満帆とはほど遠く、わずか四年でオイルショックに遭い、あわや倒産寸前まで追い込まれた。米国での赤字と研究開発に膨大な資金をつぎ込んでいたのが裏目に出た。取引銀行に実印まで引き上げられ、早朝、銀行の裏口で担当者を待ち、集金した商品代金を届けては必要経費を受け取る日々が三カ月も続いた。

 「最後は運が良かったというか、ここさえ乗り切ればと思って本当に粘りましたよ。正直言うと、何十億の借金を一生返せないと思ったが、開発したICが突然、うそみたいに売れ始めた。今でいうキャッシュフローを無視した研究投資が原因だったが、結果的には先に商品を開発して市場を確保したのがよかった」

 エンジニア自認

 現在もエンジニアを自認し、第一線の研究者と肩書き抜きで議論する。経営者としては財界活動やトップセールスをしない。一般社員の前にも滅多に姿を見せない。異端児と見られがちだが、創業初期には商品売り込みの失敗から、話し方教室に六年間通い、心理学の本もむさぼり読んだ。脚光を浴びる最先端企業のイメージとは異なり、ひとつひとつの冷静な経営判断の積み重ねに裏打ちされている。

 「だれでも夢を見るが、実際にやっていることは全然違う場合がある。ベンチャーも、いきなり頂上を目指そうとするから大失敗するわけで、地をはって一歩一歩登っていくもの。いつも三年先を見つめて歩いていくと、霧が少し晴れてその先が見えてくる。その繰り返し。特殊なことではなく、当たり前の事をやっていくのが難しい。」

さとう・けんいちろう
 立命館大理工学部に在学中に考案した抵抗器のメーカーとして1954年、京都・西陣で前身の東洋電具製作所を個人創業した。70年代のIC進出を経て一代で日本屈指の半導体専業メーカーを築いた。交響楽団のコンサートマスターを務めた父の影響で、大学までピアニストを志していたことは有名。91年に私財を投じて音楽財団を設立、若手音楽家を支援している。68歳。


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