Kyoto Shimbun 1999.5.31 【京都経済 再生】
第7部 インタビュー 京都企業を解く <5>
 堀場製作所会長  堀場 雅夫さん

 安定志向からの脱却を
 資金調達に最も苦労

 「日本のサクセスストーリーは、有名大学を卒業して大企業に入るか、官僚になるかだ。米国では最も優秀な人材がベンチャーを目指し、次が大企業組、三番手が官僚になる。日本とは順序が逆なんだ。これは社会の仕組み、なかでも安定志向の母親に問題がある」。

 京都大三回生で事業を起こした、学生ベンチャーの草分け的存在。今、自らのベンチャー体験を振り返りながら、東京、大阪、京都などで週二、三回の講演活動に東奔西走する。ベストセラーとなった著書「イヤならやめろ!」「出る杭になれ!」などのタイトル同様に過激な発言、ユーモラスな語り口が、若い経営者や起業家たちの注目を集めている。

 「僕らの時代は、終戦直後の荒廃の中にあった。財閥も解体され、すべてがベンチャー。白いご飯を腹一杯食べられたら文句はなく、工場もガレージで十分。それに比べれば、今の起業家たちは気の毒だ。冷暖房完備の工場は必要だし、給料の遅配なども許されない。多額な設備資金も要る」

 京都大時代、原子核物理の研究者になる夢を描いていたが、敗戦で核実験施設が一掃され、一九四五年十月、京都市下京区烏丸通五条上ルの民家を借りて、堀場製作所の前身「堀場無線研究所」を設立、起業家を志した。

 「転機は何度もあった。でも、やはり一番苦労したのが金策だった。毎月五日は手形の決済、二十五日は給料の支払い…と、休まる暇がない。日本の企業は、ほとんどが借り入れ経営で、直接マーケットから資金調達したくても、名も知れぬベンチャーでは無理。米国はほとんどがキャッシュだし、ベンチャーへの投資も、ごく普通に行われている。最近、リスクマネージメントという言葉が金融機関で流行しているが、石橋を叩いても渡らないのが現状じゃないか」

 会社設立当初は、家電製品の修理や停電灯を作って生活していた。あるとき、電気回路の故障の原因がコンデンサーにあることに気づき、高品質コンデンサーの開発に着手。試作品を完成させ、出資者を求めて、いよいよ工場建設に着手という時に、朝鮮戦争が勃発した。インフレで建設費が三倍に膨れ上がり、結局、着工を断念した。

 代わりにコンデンサーを作るために開発したpH(ぺーハー)メーターの製造・販売に切り替えた。その際、大沢義夫大沢商会会長と石川芳次郎京福電鉄社長(いずれも肩書きは当時)らがポケットマネーから出資、堀場製作所の設立にこぎつけた。同社には、二人の出資者の名前を冠した社内賞がある。

 「資金調達ができずに困っていた時、赴任してきたばかりの東海銀行京都支店長の加藤隆一さん(後に頭取、現相談役)が、権限を上回る五千万円を貸してくれた。よくやったと思うよ。結果として会社がつぶれなかったから良かったが、本当の意味でリスクテイクしてくれた。先日も、東海銀行の取引先企業の集まりで講演した際、『こういう危険な人がいたから、うちは生き残れた』と話したばかりだ」

ほりば・まさお
 京都大理学部卒、医学博士。1953年、堀場製作所を設立し、社長に就任。78年会長に就き、95年、同社の代表権を返上。京都高度技術研究所理事長、京都科学機器協会理事長、京都市専門委員などを兼務。著書に「堀場雅夫の経営心得帖」「仕事ができる人、できない人」など。


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