Kyoto Shimbun 1999.6.4 【京都経済 再生】
第7部 インタビュー 京都企業を解く <10>
 京セラ名誉会長  稲盛 和夫さん

 成功には素直さ必要
 第二電電を仕上げる

 先月二十日、京都商工会議所会頭としての定例記者会見で、ぎくしゃくしていた京都仏教会と京都市の「係修復を仲介したい」と発表した直後、米国ワシントンに飛んだ。衛星携帯電話のイリジウム社の役員会に出席するためだった。その一カ月前には、南米パラグアイを訪れ、現地の携帯電話会社幹部や政府首脳と会談したばかり。寸暇を惜しんで、世界を飛び回っている。

 「やり残したのは、第二電電(DDI)の仕上げだ。通信業界は、非常な勢いで世界的な合従連衡が進んでいる。その中で第二電電がどの方向で生きていくのか、決めなくてはならない。PHSとイリジウムの再生についても、来年三月ごろまでにはメドをつけたい。第二電電の行方は、通信業界に大きな影響を与えるが、京都がその地殻変動の震源地になるだろう」

 二十七歳で小さな町工場からスタートし、世界的な電子部品メーカーに育てた。さらに、巨大組織の日本電信電話公社(現NTT)に対抗して第二電電を創設、PHSや衛星携帯電話に事業を拡大し、今や世界の情報通信業界のカギを握る一人となった。

 「京都には、ベンチャーを育てる土壌があった。昔、祇園のお茶屋や芸妓衆が『出世払い』と言って若い人たちを応援したと聞くが、京都には、そういう雰囲気があったのかもしれない。京都大学の存在も大きい。私を支援してくれた人には京大出身者が多かった。東京大学の権威主義、官僚主義に比べて、京大は庶民性、自由人という気風が強い。権威主義、官僚主義の人だったら、零細企業の研究者だった私を大切には扱ってくれなかっただろう」

 創業をバックアップしたのは、ベンチャー企業の草分けだった宮木電機(京都市中京区)の西枝一江専務や宮木男也社長(同、京セラ初代社長)=いずれも故人=たちだった。西枝氏が京セラ創業メンバーの一人、青山政次氏(故人、京セラ二代目社長)の京大の同級生だったことから、自宅を担保に入れて出資金を都合し、宮木社長らを口説いて宮木電機の倉庫を工場として提供した。

 「私は西枝さんにいろんなことを教わった。西枝学校の一員だと思っている。酒の飲み方から経営者の責任まで。その中に『株式紙切れ論』がある。『あなたの技術を換算した』と言って、株を私に持たしてくれた。その上で、株は会社がうまくいけば値打ちが出るが、うまくいかなければ、かまどのたきつけにしかならない。つまり、株式にこだわるな、と。ベンチャーで成功して有頂天になる人もいるが、株式を紙切れだと思うことで、自分を見失わすんだ」

 自らの経営哲学を若い経営者に積極的に語りかけている。十六年前、京都の若手経営者らを集めて始まった経営塾「盛和塾」は現在、海外を含めて約三千人が参加している。航空業界に新規参入した北海道国際航空(エア・ドゥ)への支援も、同社役員が塾生であることが縁で、後輩ベンチャーの支援に力を入れる。

 「ベンチャーで成功しかけている人は才能があり、気力も強い。しかし、成功するには素直さが必要だ。私自身、師と仰ぐ人があり、素直に先人の教えを聞いて、自分のものにしたことが一番だった気がする。中国の古典に『謙のみ福を置く』という言葉がある。謙虚でおごらないことがベンチャーの絶対条件だ」

いなもり・かずお
 鹿児島大工学部卒業後、京都の碍子(がいし)メーカーに入社。一九五九年に京都セラミツク(現京セラ)を創設、66年社長に就任した。85年会長、97年から名誉会長。95年から京都商工会議所会頭に。稲盛財団を創設して「京都賞」を設けているほか、サッカーの京都パープルサンガの経営や京都放送の経営再建にもあたっている。97年9月には剃髪(ていはつ)、得度した。67歳。


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