Kyoto Shimbun 1998.5.19 気になるリポート

「今もタイ米がいとおしい」ワケ

 田植えの季節が近い。エルニーニョ現象、地球温暖化…。兼業農家である私としては、五年前の不作が忘れられず、好天を祈る日々が続く。そういえば、コメが不作の時、話題を集めたタイ米をしばらく見ていない。日本人のために来たのに、「まずい」だの「くさい」だのいわれ、挙げ句の果てに捨てられまでした。ずいぶんひどい仕打ちをしたものだ。それにしても、
あのタイ米はどこへ。

    (社会部 河村 亮)


 命の源 忘れないで

倉庫に大量に山積みされて
いるタイ米(大阪市港区)

 手始めに、京都市中京区の米屋さんに直行した。「タイ米は置いてません?」。「いいや。売れないし、仕入れるところもないよ」。店主の答えはあっさりしたものだ。市内のある百貨店では「凶作の年にはたくさん店頭に並んだけど、半年後に国産の新米が出ると見かけなくなりました」。タイからの留学生アヌチャー・ワンナゴンさん(27)は「全然手に入らないので、実家から取り寄せてます」

 タイ米が海の彼方からやって来たのは、今から四年半前の九三年十一月のことだった。日本のコメ凶作に伴い、緊急輸入された。農水省によると、九三―九四年に輸入されたタイ米は約七十八万トンにのぼる。しかし、特有のにおい、パサパサした食感のため、飯米用として販売が振るわず、加工用に回されたり、食糧不足の北朝鮮やフィリピンに支援米として送られたり、飼料として牛や豚の胃袋に収まった。

 ウルグアイ・ラウンド交渉により毎年、一定量の外国米が入ることになったため、その後もタイ米は輸入されている。九五―九六年に輸入されたタイ米は約二十二万トン。多くが売れ残っているということは、きっとどこかにある。タイ米が大阪港で荷揚げされると聞き、大阪に向かった。

 大型倉庫が建ち並ぶ大阪港ふ頭の倉庫で、ついにタイ米に対面できた。暗い倉庫の一角で、タイ米は忘れ去られたように静かに眠っていた。

 この倉庫だけで、六百トンが山積みされていた。日本産米に挟まれて、いかにも肩身が狭そうだ。昨年九月に運び込まれ、卸業者の受注で少しずつ出て行くのだと、倉庫業者は説明してくれた。大阪港にはこのような倉庫がほかに三、四カ所あるという。

 まずい、くさい…消えたけど

米屋さんで今も販売される
タイ米。日本の学生に人気
だという(京都市左京区)

 この倉庫から出てゆくタイ米はいったいどこに行き着くのだろう。京都食糧事務所(上京区)によると、京都では飯米用としてはほとんど小売りされていないが、加工用として毎月五十―百トンが大阪から京都に送られる、という。

 加工用の多くは、粉にされ、モチやだんご、おかきの材料となる。最近、「おかきの味が変わった」という声も聞く。おかきをおいしそうに食べているお父さんも実は、「まずい」とかけなしていたタイ米を味わっていることもあるのだ。

 タイ米は町中から本当に姿を消したのだろうか。もう一度、留学生の多い左京区の百万遍周辺を探した。やっと、見つけました。東大路通に面した昔ながらの米屋さん「清水商店」の店内で、ほかの日本産米袋に交じり、タイ米は棚の真ん中に堂々と陣取っていた。あの暗い倉庫から出た喜びに満ちているかのように。

 五キロで千六百円。平均的な国内産米に比べれば、千―千二百円ほど安い。店の清水正男さん(48)は「タイの留学生より、日本の学生がよう買っていく。チャーハンや汁気の多い『ぶっかけご飯』に使うって聞いてるよ」。多いときは週五十キロも売れるそうだ。

◆ ◆ ◆

 「確かに、タイ米は日本人の嗜(し)好に合わなかったと思うが、あの時、タイの国自身がくさいとかいわれた。日本人のアジアへの差別意識のようで、嫌だった。次の年に豊作になると、すぐにコメ不足のことを忘れ、タイ米は忘れ去られた。米は命の源。もう一度、米について考えて欲しかった」

 タイ米が日本にやって来た時、「故郷じゃ子供が泣いている。腹が減ったと泣いている」と、タイ米の哀愁を歌った「タイ米ブルーズ」作者のシンガー豊田勇造さんの話に、思わずうなずいた。


▲INDEX▲