| 祇園祭の神事、営み続けて |
保護に感謝し祭の担い手に −町衆が祇園祭の担い手になったきっかけは。 「なぜ町衆が祇園祭と結びついたか、宮司就任後に『祇園社記録』という社蔵の文献を読んでいるうちに興味深い事実に気づいた。祇園社には材木座練絹座、小袖座、綿座、袴座、菓子座、釜座の七座が所属し、年貢を納め、祭礼に奉仕することで生産、営業活動の権利が与えられていた。その綿座だが、当時綿といえば絹綿のことで、従来の綿座商人(本座神人)と近郊の行商綿商人(新座神人)が利権をめぐり争った記録(1343年)が残っている。この時、祇園社執行は新座神人を擁護し新たにお墨付きを与えた。これら綿座商人が、やがて祇園祭の担い手として活躍する町衆になる。彼らは四条室町を中心とした地域に根を下ろし、祇園社に公認を受けた感謝のあかしに山鉾を造り、祇園祭を盛り立てるのに力を注いだと思われる。さらに、綿座の商人が祇園社に組み込まれたわけは、丹波、丹後、近江、越前、越中などの養蚕(さん)地域、生糸の生産地が祇園社の社領であったことでもうなずける」 疫病退散祈願がきっかけ −祇園社の神事は、もともとどんな形で始まったのか。 「都に疫病が流行した際、これを怨霊のたたりとみて、その退散を願って祈ったのが祇園御霊会だ。貞観11(869)年の旧暦6月7日に、神泉苑に66本の矛を立て祭祀(し)を行い、14日には洛中の男が神輿を神泉苑に送って厄除けを祈ったことに由来する。その場所は三条の御供社の位置ではないかと推定される。天延2(973)年以後は官祭として行われ、殿上人、巫女(みこ)、童子などが参列し、中世以降は町衆が担い手となって現在のような山鉾となった」 古い信仰と町衆の力が調和 −神事の神輿のお渡りはその後どう変わったか。
* * * まゆみ・つねただ氏 1923年、大阪市生まれ。神宮皇学館大在学中に学徒出陣。復員後に住吉大社祢宜(ねぎ)、皇学館大教授を経て93年から八坂神社宮司。著書に「日本古代祭祀の研究」など。 |