Kyoto Shimbun 1996.7.8


  祇園祭の神事、営み続けて


 真弓常忠・八坂神社宮司に聞く

 祇園祭は、1日の「吉封入り」に始まり、7月いっぱい京の町を祭り一色に染める。メーン行事は華やかな山鉾巡行や宵宮だが、その一方、八坂神社での神事も厳粛に営み続けられる。その神事の由来などを真弓常忠宮司に聞いた。
   

祇園祭と八坂神社

−祇園祭と八坂神社がどんな関係にあるのか分からない、という人が多いが。

中世の神社記録をもとに話す
真弓宮司(八坂神社社務所)
 「書店に出ているある観光案内地図のガイトに次のような解説がある。『祇園祭の期間中にたまたま八坂神社の祭事が重なっただけで神社とは無関係。神官は祇園祭には奉仕しない』。なぜこのように誤って伝えられたのか。1つには応仁の乱の後、神輿(みこし)が復興できないうちに、町衆が山鉾を復興させたことが挙げられる。また、法華一揆の影響で神輿の渡御ができないままに『神事これなくとも山鉾これ渡したし』との要求が出て、山鉾巡行だけが行われたいきさつもある。さらに、新憲法による政教分離で、国や自治体から文化財などへ助成を受けるには、宗教色を前に出さず、町衆の祭りだとうたってきた事情があると思う。神輿渡御は神社の神事、山鉾巡行は町衆の祭りで、両者は別ものという認識はこうして広がったと考えられる」


 保護に感謝し祭の担い手に

   −町衆が祇園祭の担い手になったきっかけは。

 「なぜ町衆が祇園祭と結びついたか、宮司就任後に『祇園社記録』という社蔵の文献を読んでいるうちに興味深い事実に気づいた。祇園社には材木座練絹座、小袖座、綿座、袴座、菓子座、釜座の七座が所属し、年貢を納め、祭礼に奉仕することで生産、営業活動の権利が与えられていた。その綿座だが、当時綿といえば絹綿のことで、従来の綿座商人(本座神人)と近郊の行商綿商人(新座神人)が利権をめぐり争った記録(1343年)が残っている。この時、祇園社執行は新座神人を擁護し新たにお墨付きを与えた。これら綿座商人が、やがて祇園祭の担い手として活躍する町衆になる。彼らは四条室町を中心とした地域に根を下ろし、祇園社に公認を受けた感謝のあかしに山鉾を造り、祇園祭を盛り立てるのに力を注いだと思われる。さらに、綿座の商人が祇園社に組み込まれたわけは、丹波、丹後、近江、越前、越中などの養蚕(さん)地域、生糸の生産地が祇園社の社領であったことでもうなずける」


 疫病退散祈願がきっかけ

 −祇園社の神事は、もともとどんな形で始まったのか。

 「都に疫病が流行した際、これを怨霊のたたりとみて、その退散を願って祈ったのが祇園御霊会だ。貞観11(869)年の旧暦6月7日に、神泉苑に66本の矛を立て祭祀(し)を行い、14日には洛中の男が神輿を神泉苑に送って厄除けを祈ったことに由来する。その場所は三条の御供社の位置ではないかと推定される。天延2(973)年以後は官祭として行われ、殿上人、巫女(みこ)、童子などが参列し、中世以降は町衆が担い手となって現在のような山鉾となった」


 古い信仰と町衆の力が調和

 −神事の神輿のお渡りはその後どう変わったか。

 「15世紀に一時中断したが、その後も陰暦6月7日に神輿が巡行し御旅所に留まり、14日に再び神輿が市中を巡行して祇園社へ帰る。それに先立って7日に前祭りの山鉾が、14日にはやはり後山が神輿に先立って都大路をおはらいしたと考えてよいだろう。現在では17日の山鉾巡行の夜、神幸祭が行われ、神輿が御旅所に渡御。
神輿が八坂神社に帰る還幸祭(昨年)
24日の花笠巡行の夜、還幸祭があり神輿が祇園社に戻る。山鉾を飾るのは各町内だが、八百万の遠い神々も集まり、祇園社の神を迎えて『神を祭る人』あり『祭られる神』があり、さらに『祭る神』が一体となり、古い信仰の形を包みこんで1つの祭りの中に調和させているところに祇園祭の特質、面白さがあると思う」

                 * * *

 まゆみ・つねただ氏 1923年、大阪市生まれ。神宮皇学館大在学中に学徒出陣。復員後に住吉大社祢宜(ねぎ)、皇学館大教授を経て93年から八坂神社宮司。著書に「日本古代祭祀の研究」など。

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