Kyoto Shimbun 1998.4.6
 みちくさの景色・5 

 何をあれだけ話すことがあったのだろう。何人か集まると喫茶店に行って、一時間や二時間はあっというまに過ぎた。喫茶店は田舎出の学生には初めて触れる都会でもあった。コーヒーに付いてくるミルクや砂糖の入れ方、順序にもそれぞれの流儀があるらしく、こっそり観察していると、なかに黙ってブラックですすっているのがいたりして、話の中身とは関係なく、そんなことの一々までが気になるのだった。

クンパルシータ(京都市中京区西木屋町四条上ル紙屋町)

写真・甲斐 扶佐義

 年をとるにつれ、男同士しらふで話しこむようなこととてそうあるでなし、いきおい足が遠のいてからも、町を歩いていて昔の喫茶店が健在なのを見ると、やっぱりホッとする。喫茶店がまだ日本の都市風俗の核としてあった時代を生きたものの懐古趣味には違いないが、それにしても今、ピンクサロンばかりが目だつ昼間の町の貧寒なことよ。昭和が終わるころ、“純喫茶”と呼ばれた昔からの店が次々と姿を消して、京都の繁華街地図は様変わりした。「フタバヤ」「開花」「クローバー」などがいつの間にか店を閉じ、戦前からつづいてきた「夜の窓」も姿形を変えている。

 昭和十年ごろからしばらく、喫茶店の最盛期があった。当時、京都では喫茶店を主たる広告主と、同時に販売網の拠点として「土曜日」という週刊新聞が発行されている。そうした喫茶店の多くは、西洋のクラシックや軽音楽を聞かせたが、やがて店名にも敵性語はまかりならぬという時代になり、今の「リプトン」は「大東亜」の名で戦中をくぐり抜けたという。

 「そうどした。河原町通六角の西側にあった〈デリケッセン〉という店が、当て字で〈出里決戦〉となっていました」

 店の中には別の時間が流れ

 タンゴ好きの少女だった佐藤美恵さんが、純喫茶「クンパルシータ」を開いたのは、戦後の混乱が続く最中の昭和二十一年。ママ歴は五十年を越える。

 「ヤミでものを買わないと生きられへん時代でした。コーヒーはドンゴロスに入れて生のまま持ってくる。焙煎(ばいせん)も家でやってました。母が手伝ってくれて、七輪に火を起こしてやってたんですかなあ…、忘れてしまいましたけど。砂糖がなくて、しょうがなくサッカリンを使ったこともあります」

 大卒国家公務員上級職の初任給が五百四十円の時代、八百円の家賃で始めたのだった。

 「レコードも二十年代はSPでしょう。片面一曲で三分やから、大変なんですわ。お客さんが教えてくれましてねえ、今でも忘れませんが、アメリカのアドミラル製の機械を買った。これだと十枚重ねて、一回スイッチを入れると十曲かかるのです。助かりました。あのころのSPも 残しておけばよかったのでしょうが、どこへやったのやろ」

 この店より古い喫茶店は、もう「フランソア」「築地」など、数えるほどになった。

 「二十五年とか、三十年ぶりや言うて、もうないかと思ってきたが、あったんやなあって、そう言われると、やはりうれしいです。覚えてるか、言われても…向こうも変わってる、私も老齢年金をもらう年になってるんですから、それは無理ですけどねえ」

 ピンサロ攻勢はこの店の周辺にも押し寄せているが、店のなかにはまた別の時間が流れる。「コーヒーはお口に召しましたでしょうか」「ありがとう。おばさん、元気でね」

(編集委員 中村 勝)

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