探訪 京滋の庭
御香宮神社「石庭」(京都市伏見区)
▼MEMO

遠州ゆかり 焼け跡が歴史物語る

写真
先代宮司の尽力で戦後に再現された小堀遠州ゆかりの庭。書院の縁側に腰を下ろすと、落ち着いた雰囲気に包まれる
 書院の廊下を抜け縁側に出ると、こぢんまりした枯山水の庭が現れた。敷き詰めた白い小石の所々に直径1、2メートルの石が点在する。線状の黒石は小川を表し、奥には草木に覆われた築山がある。

 江戸初期、伏見奉行を務めた小堀遠州にゆかりが深い。茶道や築城、造園に秀でた遠州は1623(元和9)年、伏見奉行所を御香宮神社の南に移した際、奉行所内に庭を作った。

 1868(慶応4)年1月、伏見奉行所に幕府軍、神社境内には官軍の薩摩藩が陣取った。鳥羽伏見の戦いだ。激しい攻防で奉行所は焼け落ちた。明治維新後、奉行所は軍の工兵隊施設となり、庭の存在は忘れられた。
 戦後、庭石が払い下げられることになり、先代の三木善之宮司が尽力した。大阪の近畿財務局に何度も足を運び、神社への払い下げを求めた。

 この時、境内に庭石を移し替えて作り直したのが今の姿である。三木善則宮司(58)は「ダンプに20台分位の大量の石を持ち帰ったそうです」と話す。庭は1961年に完成した。

 庭を見渡すと、その歴史がうかがえる。中央の手水(ちょうず)鉢は全体が赤黒く変色し、角がはがれ落ちている。他にも表面が焼けた石がある。鳥羽伏見の戦いで焼かれた跡だ。

 奥にある藤棚は先代が根を移し替えた。脇に立つ石碑は戦後、進駐軍に接収された建物で玄関の敷石に使われていたのを、先代が探し出した。靴の泥取りに使われ、文字が削れて消えている。

 三木宮司は「遠州は伏見文化の象徴でもある。先代には、遠州にかかわる事物を後世に残したいとの強い思いがあった」と振り返る。庭は歴史に振り回されたが、先代らの力で今も優雅な姿を残している。

【2002年6月26日掲載】


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