近江の歴史 -2-
市辺皇子 天智天皇の大津宮
蒲生野相聞歌壬申の乱
条理制紫香楽宮



 市辺皇子

 八日市市の市辺に市辺押磐皇子の御陵がある。円墳が2つあり、西方が帳内佐伯部売輪の墓という。安康天皇は市辺皇子に皇位をゆずろうとされたが、同母弟に大泊瀬皇子(雄略天皇)がいて、皇位につこうとしたので、市辺皇子を狩に誘い、射殺したのである。ところが雄略天皇のつぎの清寧天皇に皇子がなかったので、市辺皇子の御子を探し皇位につけた。顕宗天皇である。



 天智天皇の大津宮

 聖徳太子は近江出身の小野妹子や犬上御田鍬や遣隋使として中国に送り、高い文化を輸入した。そのころ、飛鳥では蘇我氏の勢力が強く、横暴だった。そこで中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我氏をほろぼし、大化の改新を断行した。

 一方、百済救援と蝦夷攻略が重なって、朝鮮の白村江の戦いに敗れると、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。大津宮では、日本で最初の近江令を制定し、冠位の改定や、わが国で初めての戸籍を作った。また、渡来した鬼室集斯を学頭職にして学問を奨励し、時計の普及に努め、文化の向上を考えた。しかし、大津宮はわずか5年でほろんだので、完成されなかった。遺跡の全貌は不明だが、錦織地区の発掘で、その一部が明らかにされた。崇福寺跡から出土した舎利容器(国宝)などから推量すると、大津宮の文化はかなり高い。




 蒲生野相聞歌

 天智天皇の7年(688)の「万葉集」の記事によって、よく知られた額田王と大海人皇子の万葉歌はつぎのようである。

天皇蒲生野に遊猟したまふ時、
額田王の作る歌あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
皇太子の答へましし御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも

 額田王と大海人皇子のあいだには十市皇女がいたのに、この相聞歌のできたころは額  田王は天智天皇に仕える身であった。この三角関係が壬申の乱を導いたという説もあ る。大海人皇子はのちに飛鳥へ帰って即位した天武天皇である。この相聞歌は八日市 の船間山に立派な歌碑となっている。山麓一帯には万葉の森の施設がある。




 壬申の乱

 天智天皇がなくなったので、近江では山科に御陵を築くため美濃・尾張から人を集めた。そのために、吉野にかくれていた大海人皇子の側では吉野攻撃の準備とみて、動きが不穏となり、大海人皇子や高市皇子らが伊賀から美濃に入って不破を遮断したため、壬中の乱が始まった。近江側の大友皇子は、瀬田で奮戦したが、三井寺の山前で戦死した。蒲生野の有力者の羽田公矢国らもねがえりをうったので、大海人皇子の大勝利に終わった。その後、柿本人麻呂は「近江の荒都を過ぐる時」の歌で「大宮どころ見れば悲しも」と詠んだ。





 条理制

 大宝令によって、公民に公田を給し、男に2反、女にその3分の2を6年ごとに与える制度ができた。班田収授の法である。与えられた田を口分田といった。長浜市に口分田という地名がある。また、班田収授のために田籍図をつくった。縦を条とし、横を里として測量したため条理制という。その遺跡はほとんど完全な形で、彦根市や愛知郡に残っている。このほか県内には各地に、三条・八条とか、五之里・七里などの地名があり、能登川町の小字名では一ノ坪から三十六坪まであって、当時の中央の政治がこの地方に徹底していたことがよくわかる。





 紫香楽宮

 聖武天皇の天平14年(742)に甲賀寺の造営が始まり、さらに大仏鋳造の詔がくだった。しかし、紫香楽宮の建設を喜ばなかった人々が不審火による火災を起こしたので、離宮造営は中止され、大仏は奈良で完成した。このあと、淳仁天皇が紫香楽宮の近くに保良宮を建てた。そこへ女帝の孝謙天皇と道鏡がきたことを知って、藤原仲麻呂(恵美押勝)は道鏡を除こうと謀反をおこし、反対に追われて高島で殺された。

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