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市辺皇子 | ![]() | 天智天皇の大津宮 |
![]() | 蒲生野相聞歌 | ![]() | 壬申の乱 |
![]() | 条理制 | ![]() | 紫香楽宮 |
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市辺皇子 八日市市の市辺に市辺押磐皇子の御陵がある。円墳が2つあり、西方が帳内佐伯部売輪の墓という。安康天皇は市辺皇子に皇位をゆずろうとされたが、同母弟に大泊瀬皇子(雄略天皇)がいて、皇位につこうとしたので、市辺皇子を狩に誘い、射殺したのである。ところが雄略天皇のつぎの清寧天皇に皇子がなかったので、市辺皇子の御子を探し皇位につけた。顕宗天皇である。
天智天皇の大津宮聖徳太子は近江出身の小野妹子や犬上御田鍬や遣隋使として中国に送り、高い文化を輸入した。そのころ、飛鳥では蘇我氏の勢力が強く、横暴だった。そこで中大兄皇子と中臣鎌足らは蘇我氏をほろぼし、大化の改新を断行した。 一方、百済救援と蝦夷攻略が重なって、朝鮮の白村江の戦いに敗れると、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。大津宮では、日本で最初の近江令を制定し、冠位の改定や、わが国で初めての戸籍を作った。また、渡来した鬼室集斯を学頭職にして学問を奨励し、時計の普及に努め、文化の向上を考えた。しかし、大津宮はわずか5年でほろんだので、完成されなかった。遺跡の全貌は不明だが、錦織地区の発掘で、その一部が明らかにされた。崇福寺跡から出土した舎利容器(国宝)などから推量すると、大津宮の文化はかなり高い。
蒲生野相聞歌天智天皇の7年(688)の「万葉集」の記事によって、よく知られた額田王と大海人皇子の万葉歌はつぎのようである。 天皇蒲生野に遊猟したまふ時、 額田王の作る歌あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 皇太子の答へましし御歌 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも 額田王と大海人皇子のあいだには十市皇女がいたのに、この相聞歌のできたころは額 田王は天智天皇に仕える身であった。この三角関係が壬申の乱を導いたという説もあ る。大海人皇子はのちに飛鳥へ帰って即位した天武天皇である。この相聞歌は八日市 の船間山に立派な歌碑となっている。山麓一帯には万葉の森の施設がある。
紫香楽宮聖武天皇の天平14年(742)に甲賀寺の造営が始まり、さらに大仏鋳造の詔がくだった。しかし、紫香楽宮の建設を喜ばなかった人々が不審火による火災を起こしたので、離宮造営は中止され、大仏は奈良で完成した。このあと、淳仁天皇が紫香楽宮の近くに保良宮を建てた。そこへ女帝の孝謙天皇と道鏡がきたことを知って、藤原仲麻呂(恵美押勝)は道鏡を除こうと謀反をおこし、反対に追われて高島で殺された。 |