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石山寺の創建 | ![]() | 最澄の天台開宗 |
![]() | 三井寺の復興 | ![]() | 近江の式内社 |
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石山寺の創建近江の国分寺は大津市の石山(または瀬田)にあったという。このころ、奈良の都の建設のための材木を田上山から運ぶため、瀬田川のほとりに石山院という役所を建てて、川を流した材木の監督をした。それが、のちに良弁を開基とする石山寺になったと伝える。さらに平安時代に菅原道真の孫の淳祐が真言を伝えて密教の道場としてから栄え、国宝指定の舞台作りの本堂や日本で最古の木造多宝塔がある。このほか、国宝・重文の文化財がたいへん多い。
最澄の天台開宗
大津市の比叡山の麓で生まれた最澄は13歳で出家し、20歳で東大寺戒壇院で具足戒を受け、その年に比叡山に登った。そして、草庵を建て、独学で経典を研究し願文を書いた。それがきっかけで、桓武天皇にみとめられ、入唐求法が許されて、天台山に登り、道邃・行満から、円・密・禅・戒の四宗を伝えた。帰国して天台宗を開き、義真・円澄・円仁・円珍らの高弟を育て、鎮護国家の道場として延暦寺を建て、長く日本の仏教の発展に影響を及ぼした。最澄は死後、伝教大師と追号された。 三井寺の復興
近江の式内社
木曽義仲と粟津
木曽の山中より平家を討っために挙兵した義仲は各地で平家の軍を破り、京へ入ったが、粗野乱暴がすぎたので、後白河法皇の怒りにふれ、源頼朝に義仲討伐の命がくだった。そこで源範頼や義経に義仲を討たせた。範頼は瀬田で、義経は宇治で、義仲の軍を破り、ついに粟津原に追いこんだ。義仲は腹臣の今井兼平や、愛妾の巴とともによく戦い、兼平は壮烈な戦死をした。義仲も命を絶った。そこで、巴は北国へ落ちた。大津市馬場1丁目の義仲寺には朝日将軍義仲の墓がある。また、JR石山駅のすぐ近くに今井兼平の墓もある。
観音寺城
湖東の観音寺山は標高440メートルで、山上に近江源氏佐々木六角氏の本城跡がある。南北朝時代のはじめに砦があったが、そこに、応仁2年(1468)に佐々木高頼が城を築いた。応仁 の乱では六角氏が山名宗全に従って戦った。元弘3年(1333)に、六波羅探題をのがれた北条仲時は観音寺城に1泊して、番場の蓮華寺まで逃げたが、京極道誉のため、432人が自刃した。佐々木氏は400年のあいだ、近江の守護だったが、織田信長に攻められて滅亡した。しかし、同族の京極氏は後世まで栄えた。坂田郡山東町の徳源院には京極氏歴代の墓がある。 |