近江の歴史 -3-
石山寺の創建 最澄の天台開宗
三井寺の復興近江の式内社
木曽義仲と粟津観音寺城



 石山寺の創建

 近江の国分寺は大津市の石山(または瀬田)にあったという。このころ、奈良の都の建設のための材木を田上山から運ぶため、瀬田川のほとりに石山院という役所を建てて、川を流した材木の監督をした。それが、のちに良弁を開基とする石山寺になったと伝える。さらに平安時代に菅原道真の孫の淳祐が真言を伝えて密教の道場としてから栄え、国宝指定の舞台作りの本堂や日本で最古の木造多宝塔がある。このほか、国宝・重文の文化財がたいへん多い。




 最澄の天台開宗

 大津市の比叡山の麓で生まれた最澄は13歳で出家し、20歳で東大寺戒壇院で具足戒を受け、その年に比叡山に登った。そして、草庵を建て、独学で経典を研究し願文を書いた。それがきっかけで、桓武天皇にみとめられ、入唐求法が許されて、天台山に登り、道邃・行満から、円・密・禅・戒の四宗を伝えた。帰国して天台宗を開き、義真・円澄・円仁・円珍らの高弟を育て、鎮護国家の道場として延暦寺を建て、長く日本の仏教の発展に影響を及ぼした。最澄は死後、伝教大師と追号された。




 三井寺の復興

 三井寺は正しくいうと園城寺で、天智天皇の御願により、大友皇子が“田園城邑"を寄進してできた寺という。境内に天智・天武・持統の三天皇の産湯井があるから三井寺とも称する。ところが、その後、久しく荒れていたので、円珍が天台別院として再興した。天台宗の大成に尽した最澄の弟子の円仁のように、円珍も入唐して法を伝え、弟子を指導した。円珍は第5代の天台座主でもある。平安の末期になって、源平の戦いが、山門(延暦寺)と寺門(三井寺)の争いにも影響し、さらに南都(奈良)とも激しい争いとなり、僧兵が活躍した。この三井寺はだんだん勢力をもってきたので、延暦寺・東大寺・興福寺と並んで、四個大寺の一つに数えられるに至った。





 近江の式内社

 近江の平安時代の神社を知る文献は「延喜式」である。式内社は143所155座ある。その神社数は大和・伊勢・出雲についで近江は全国第4位である。代表的な神社には滋賀郡の小野神社、比叡山麓の日吉大社、瀬田川の鹿跳にある佐久奈度神社、建部大社などである。さらに、甲賀郡の矢川神社、野洲郡の御上神社、兵主神社。湖東では、沙々貴神社があり、犬上郡の阿自岐神社、伊吹山麓の伊夫岐神社、竹生島の都久夫須麻神社、伊香郡の伊香具神社・与志漏神社など非常に多い。また、高島郡には大荒比古神社・三重生神社などがある。いずれも、近江の式内社で、現在に栄えている。これらの神社の周辺に荘園が発達した。





 木曽義仲と粟津

 木曽の山中より平家を討っために挙兵した義仲は各地で平家の軍を破り、京へ入ったが、粗野乱暴がすぎたので、後白河法皇の怒りにふれ、源頼朝に義仲討伐の命がくだった。そこで源範頼や義経に義仲を討たせた。範頼は瀬田で、義経は宇治で、義仲の軍を破り、ついに粟津原に追いこんだ。義仲は腹臣の今井兼平や、愛妾の巴とともによく戦い、兼平は壮烈な戦死をした。義仲も命を絶った。そこで、巴は北国へ落ちた。大津市馬場1丁目の義仲寺には朝日将軍義仲の墓がある。また、JR石山駅のすぐ近くに今井兼平の墓もある。




 観音寺城

 湖東の観音寺山は標高440メートルで、山上に近江源氏佐々木六角氏の本城跡がある。南北朝時代のはじめに砦があったが、そこに、応仁2年(1468)に佐々木高頼が城を築いた。応仁 の乱では六角氏が山名宗全に従って戦った。元弘3年(1333)に、六波羅探題をのがれた北条仲時は観音寺城に1泊して、番場の蓮華寺まで逃げたが、京極道誉のため、432人が自刃した。佐々木氏は400年のあいだ、近江の守護だったが、織田信長に攻められて滅亡した。しかし、同族の京極氏は後世まで栄えた。坂田郡山東町の徳源院には京極氏歴代の墓がある。

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