近江の歴史 -4-
小谷落城 坂本の馬借一揆
湖東三山 湖東の惣
信長の安土城 長浜城と秀吉



小谷落城
小谷落址(滋賀県東浅井郡湖北町伊部・浅井町須賀谷)

 近江の戦国時代の武将のなかで、佐々木氏につぐのは蒲生氏と浅井氏である。蒲生氏郷は蒲生郡日野に生まれた。非凡の名将だったので、伊勢の松阪城へ移り、さらに会津91万石へ転村された。浅井長政も、湖北の小谷城にあって、名将の誉が高く、信長は友好を結ぶために、妹のお市の方を妻としたが、浅井は越前の朝倉と結んで、抵抗した。そこで、信長は姉川の合戦に続いて、小谷城を攻めた。長政は29歳の若さで自害したが、お市は3人の娘をつれて、城をでた。長女の茶々は秀吉の愛妾淀君となり、次女のはつは京極高次に嫁し、3女の小督は徳川2代将軍秀忠の妻になった。




 坂本の馬借一揆

 近江の坂本や草津は交通の要衡で、早くから交通運送業者の馬借の集団が発生した。とくに坂本の馬借は指導的な役割を果たした。応永33年(1426)に坂本の馬借が徒党をくんで、京都に乱入し、北野社の僧坊を襲い、米価の下落をくいとめようとした。また、正長元年(1428)に徳政令を求めた近畿一帯の一揆は坂本の馬借が蜂起して口火を切ったものという。





湖東三山
金剛輪寺

 戦国の近江では武将と庶民の心をとらえた諸社寺の動きが注目される。そのなかで、湖東の古寺として有名な西明寺は、仁明天皇の勅願で、承和元年(834)に創建されたが、鎌倉中期にできた本堂や三重塔のすばらしい建築美が人々に迫ってくる。いずれも中世の文化財である。また、金剛輪寺も天平時代に行基が開いた寺と伝えるが、国宝の本堂は鎌倉中期にできたもので、須弥壇に弘安11年(1288)の銘があり、北条時宗の寄進ということがわかる。さらに、百済寺は推古天皇の御代に聖徳太子が建てた寺だが、「源平盛衰記」によると、木曽義仲に500俵の兵糧米を送ったとあるから、よほど有力な寺だったのであろう。これら湖東三山だけでなく、近江の古社寺にある国宝・重文のなかには中世にできたものが多く、中世の近江の力量の高さに驚かされる。





 湖東の惣

 近江の荘園はじつに多く、複雑なので簡単に述ベられないが、延暦寺・園城寺・日吉大社などのほか、藤原氏の荘園もあり、かなり荘園市場が盛んだった。ところで、近江は近畿の先進地域であったから、中世の初めに家父長的な名田経営が解体し、小規模な農業経営をもつ、名主や農民層が支配的であった。農民の地縁的な結合である惣の成立が顕著であるのはそのためである。惣は村落の内部で自治的規制をし、外に対して自主的防衛体制をとった。湖北の菅浦や、近江八幡の奥島荘では鎌倉時代に村落を規律する掟書を作った。とくに湖東の得珍保では、早くから村落共同体の団結があり、「今堀日吉神社文書」(国重要文化財)によると、村掟ががっちりしている。この得珍保から、近江商人の源流ともいうべき、保内商人がすばらしい活躍をし、御服座・塩座・紙座・伯楽座などの組織をもって全国的に活躍した。このころの史料には小幡商人・箕浦商人・枝村商人・横関商人の名もでてくる。





信長の安土城
安土城跡

 織田信長は浅井・朝倉を討ち、岐阜から安土に移って城を築いた。姉川合戦・小谷落城・大坂石山本願寺攻め、比叡山焼打ちを経て、やっと天下布武が緒についた。信長は天正4年(1576)に丹羽長秀を総奉行として築城を始めた。七重の天守閣のそびえる城ができると、金銀をちりばめた豪華な美観を見て人々は驚いた。

 城郭の完成につれて、安土の城下町を経営し、楽市楽座令をだして、多くの商人をよびよせた。また、城下にバテレン屋敷を設け、安土セミナリオを建て、キリスト教の布教を許した。さらに、城下の浄厳院で、浄土宗と日蓮宗との宗論をさせた。世に安土宗論として有名である。

 ところが、天正10年(1582)に中国地方を平定しようとして、京都の本能寺(こ仮泊したとき、明智光秀の急襲で信長はあえない最期をとげた。そして、安土城は光秀軍のために炎上した。平成4年(1992)に安土城考古博物館が開館した。





長浜城と秀吉

長浜城
 足利氏に属した京極道誉が北陸の南朝方に備えて、当時今浜と称したこの地に築城したのが長浜城のはじまりである。天正元年(1573)に、浅井長政が織田信長に敗れたので、秀吉が戦功により江北3郡の領主として、小谷城主になった。このとき、今浜を長浜と改め3層の天主閣を造り、小谷の城下町を移した。秀吉は本能寺の変が起こるまで長浜城主であった。変後しばらく城を紫田勝豊に譲ったが、賎ケ岳の合戦では長浜城を根拠地として大勝をえた。天正13年(1585)から同18年(1590)までは山内一豊(2万石)が在城。慶長18年(1606)には内藤信成(4万石)が城主となったが、元和元年(1615)に廃城。長浜城の建物や石垣は大半彦根城に移り、市内の大通寺台所門、知善院の表門などに遺構をとどめている。旧城跡には昭和58年(1983)に歴史博物館として、現代の長浜城ができた。

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