近江の歴史 -5-
賎ヶ岳の七本槍 石田三成の民政
小堀遠州の作事 太閤検地
関ケ原の合戦 彦根城



賎ヶ岳の七本槍


賎ヶ岳と余呉湖
 本能寺で信長が殺されたと聞くと、秀吉は電撃的に京へもどってきて光秀を倒し、清洲会議を開いて、信長の後継者問題を論じた。この時、柴田勝家が湖北の支配を主張した。勝家は小谷落城のあと、長政の3人の娘をあずかり、お市の方を妻にした。やがて、賎ヶ岳で勝家と秀吉は戦った。この時、秀吉のために戦った福島正則・脇坂安治・加藤嘉明・加藤清正・平野長泰・片桐且元・糟屋武則の7人のことが七本槍の武勇談となった。この戦いで、勝家は栃木峠から府中に至り、北ノ庄で自刃し、お市の方もいっしょに死んだ。賎ケ岳へはリフトで登ることができる。



石田三成の民政


佐和山

 長浜市石田町の出身である石田三成は秀吉に仕えて佐和山城主となり、また、五奉行の1人にもなった。小田原征伐や朝鮮侵略にも参加したが、家来の島左近に所領の半分を給与としたり、民政に尽くしたことが特筆される。13カ条の掟を諸村に渡し農民に喜ばれた。



小堀遠州の作事


滋賀院門跡の庭

 長浜市小堀町に生まれた小堀遠州は禁中、仙洞御所の作事をはじめとして、名古屋・伏見・大阪・二条の諸城の普請奉行をつとめた。また、遠州は風流を好み、和歌・花道・茶道などにすぐれ、造園術に非凡な才能を発揮し、京都の桂離宮の名園を残した。近江でも水口町の大池寺の蓬莱庭園があり、能登川町にあった伊庭御殿も遠州の作事という。



 太閤検地

 天正末年から文禄にかけて、太閤検地が行われた。八日市市今崎の引接寺にある天正11年(1583)の検地帳によると、秀吉は土地と農民を把握することが、政治の第一歩だと考えたと思われる。太閤検地によって近江の総石数が、77万5380石であることがわかる。



 関ケ原の合戦

 秀吉が死ぬと、実力者の徳川家康と石田三成は対立した。三成は会津城主の上杉景勝と謀って、徳川打倒の兵を挙げ、大津城を攻めて京極高次を高野山へ穏遁せしめ、大谷・増田・長束らと関ケ原に向かった。この戦いは天下分け目の決戦であった。東軍は家康を主将として井伊・酒井・脇坂・本多らおよそ10万、西軍は石田三成を中心に小西・宇喜多ら約8万が相対した。はじめ東軍が不利だったが、小早川の寝返りもあって、西軍は大敗した。三成は伊吹山麗に逃げたが、田中吉政に捕えられ、小西行長らと、京都の三条河原で斬られた。この関ケ原の合戦から甲賀忍者の活躍が家康に認められた。



彦根城


彦根城のお堀端

 関ケ原の戦いがすんで、井伊直政が佐和山城主になった。その子の直勝は幕府の命で、彦根山に城を築くことになった。城は伊賀・伊勢など9力国の12大名による手伝い普請であった。国宝に指定された天守閣をはじめ、太鼓櫓・西の丸三重櫓・天秤櫓などが現存し、牛蒡積みの石垣も昔のままである。35万石の城下は現代に栄えているが、徳川300年の間、ずっと彦根は井伊家が藩主であった。

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