近江の歴史 -6-
膳所城 近江商人
大津百艘船 学問の発達
義仲寺と芭蕉 天保一揆



膳所城



膳所城本丸跡

 徳川家康は大津城を膳所に移し、戸田一西を城主にしたが、そのあと、本多氏が封ぜられ、さらに、菅沼氏、石川氏にかわり、再び本多氏が城主となり、代々6万石を領して、東海道の要衝の地を守ってきた。



近江商人



八幡堀(近江八幡市)

 近江商人  慶長・元和のころから、万里の波濤をこえて、南蛮貿易に従った八幡の西村太郎右衛門をはじめ、八幡出身の西川甚五郎・伴伝兵衛・森五郎兵衛・日野の中井源左衛門・正野玄三、五個荘の松居遊見・高田善右衛門らの商人が続出し、いずれも、京都・大阪・江戸に出店し、独特の商法で豪商となった。  八幡商人はおもに蚊帳(かや)・畳表を扱ったし、五個荘商人も近江麻布が主たる商品であった。とくに高宮布の人気は高く、野洲晒も盛業であった。日野は万病感応丸をよく売った。いずれもわずかな資本で、行商から出発し、巨万の富をえたのである。



 大津百艘船

 観音寺百艘ともいわれ、芦浦観音寺の船奉行の支配下にあった。秀吉が大津の船持ちに百艘を用意させたのがはじまりで、制札五ケ条が与えられ、その特権で湖上の実権をもった。たとえば「当津荷物諸旅人入船に乗せまじき事」とあるように、大津港では百艘船仲間以外の船で荷物を積み出すことができなかった。



 学問の発達

 安曇川町上小川から近江聖人といわれた中江藤樹がでて、陽明学を大成した。その門人に熊沢蕃山らがおり、さらに、浅見絅斎・若林強斎らがでて活躍した。彦根でも心学の沢村琴所や竜草盧や岡本黄石らの学者文人がでた。また、国文学の北村季吟・伴蒿溪や国学の西川吉輔などの活躍も注目される。



義仲寺と芭蕉



芭蕉句碑(義仲寺)

 義仲寺と芭蕉  大津市馬場1丁目の義仲寺は木曽義仲の墓で有名だが「木曽殿と背中合せの寒さかな」で知られた芭蕉翁塚がある。伊賀上野出身の芭蕉は元緑3年(1690)に石山の幻住庵から、ここの無名庵に移り庵主となって、俳諧を教えた。旅を愛した芭蕉は奥の細道などの俳文紀行を残して、元禄7年(1694)に大阪で死んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」には遺体を義仲寺に葬ったいきさつが書いてある。近くの竜ケ丘俳人塚には蕉門十哲の1人内藤丈草ら17人の墓がある。  また、彦根の森川許六や李由も芭蕪の影響を受けた。



 天保一揆

 天保13年(1842)に幕府の不合理な検地に対して起こした一揆は湖国で最大の規模のものであった。検地役人の市野茂三郎のやり方は一反につき21歩も増税を追加させるものだったから、甲賀・野洲・栗太3郡の300余村の農民が団結して、生活と生産を守る抵抗をした。そこで、京都町奉行の与力同心らによって、首謀者100余人が捕えられ、二条城の獄舎に投ぜられた。そして、代表の土川平兵衛・田島治兵衛ら11名は江戸へ送られたが、途中で3人死に、残りの8人も江戸北町奉行の取り調べがきつく、拷問の責苦にたえかねて獄死した。しかし、検地は沙汰やみになった。いま、三雲の伝芳山に天保義民之碑を建てて、毎年10月14日に義民祭を催し、霊を慰めている。

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