70数ヵ国、激動の赴任地

  脳裏よぎる丹波の山々

   誇りある共助の美風


 西田 達雄さん(住友商事顧問・東京都)



 その時、ふるさと丹波の緑の山々が、さーっと脳裏をよぎりました。仲の良かった友人たちや先生の顔、顔、顔。もうだめか、と思いかけた心が少し落ち着きました。

ウクライナのクチマ大統領との会談に臨む西田さん(左から2人目)=2000年6月13日、キエフ
 一九七四年一月十五日を生涯忘れることはないでしょう。ジャカルタ駐在だった私は、田中角栄首相の訪問に反対し、荒れ狂う反日デモに遭遇しました。興奮した少年たちが、私の乗っていた車を壊し始めました。必死の思いで脱出した時、頭に浮かんだのが私を育ててくれたふるさとの何気ない風景だったのです。

 私は、四方が山に囲まれた農家の生まれ。一、二年は地元の分教場で学び、その後は摩気小、園部中、園部高と峠を越える山道を歩いて通学しました。小学二年の夏に敗戦を迎えたのですが戦争末期、園部にも米軍機が低空に飛来し山の中に逃げ込んだり、神戸、大阪などが空襲を受け、昼でも真っ赤に染まる南の空から燃えかすが飛んできたこともありました。

 高校生だった一九五五年、独立を勝ち取った諸国がインドネシアのバンドンに集った「アジア・アフリカ会議」。抑圧されていた国々の血気盛んな様子が、敗戦に打ちひしがれていた日本とだぶって見えました。テレビやラジオはなく、新聞を食い入るように読んだものです。今、まさに躍動する世界に身を置きたいと考え、奨学金を受けて外語大に進みました。

 卒業後、商社に入社しインドネシアをはじめ、七十数カ国をめぐりました。世界の国々と比べても、丹波の落ち着いて静かな暮らし、助け合いの美風は誇れるものでしょう。一方、細かい点をやや気にしすぎるきらいがあり、大局的に物事を捉えることが必要ではないでしょうか。

 インドネシアでの暴動は、日本人と日本企業の自国の利益だけを考えた行動に対する警鐘だったと今でも思います。進出企業でつくるジャカルタ・ジャパン・クラブ理事長として、メンバー企業に呼びかけ、奨学金制度を発足させました。

 インフラが整備され、次に必要なのは人材育成です。いくつかの地元企業から「奨学生だった社員は誇りを持って働いてますよ」と言われ、心はずむ思いです。

 ふるさとの若いみなさん、もっとアジアの国々に関心を持ち、見聞を広げてほしい。若い時こそアジアを知ってほしい。「変化はチャンス」と受け止め、世界に翼を広げるもよし、地域活性化に資するもよし、社会的弱者を支援するもよし。活動の場を自らつくり出してください。(2002.1.20 掲載)

 にしだ・たつお  1937年摩気村(現園部町口人)生まれ。大阪外語大インドネシア語科卒。住友商事入社。ジャカルタ事務所長、専務取締役などを経て顧問。経済界代表としてロシア・中央アジアとの関係強化を図る訪問団(小渕恵三団長)に参加するなど幅広く活躍。東京都在住。

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