ひとつの価値観しかない時代

   平成の語り部が私の責任


 野中 広務さん(前衆議院議員・園部町)


 猛暑が厳しい2004年の口丹波の夏。ふるさとの川や山は、帰省した家族らの歓声が響く。一方、世界に目を転じると米中枢同時テロ、イラク戦争、自衛隊派遣…。緊張した局面の連続だが、口丹波でも59年前、戦時下の暮らしが続いていた。身をもって当時を知る3人に、ふるさとと戦争について聞いた。(丹波総局 内田孝)

伝える-いま、ふるさとと戦争(上)

 「平成の語り部として戦争体験を伝えたい」。突然の政界引退宣言からほぼ1年。野中広務さん(78)は連日、全国各地での講演やテレビ出演、新聞連載を精力的にこなす。

報国日本が天命だと思っていた」と戦時中を振り返る野中さん
 1938(昭和13)年、園部尋常第一小(園部小)を卒業し旧制園部中(園部高)に進学。戦時色が濃くなるころだ。

 「裁判所前に陸軍大将田中弘太郎さんの家があり、行軍中の軍隊が家の前で敬礼し、『気を付けっ、頭、右っ』とやるんです。今なら何と幼稚な考えやとなるが、当時は『神国日本』に生きることが男子の本懐。逆に国と天皇陛下に矛盾する気持ちを抱く方が不思議でしたから。

 村や国鉄園部駅で出征するおじ、従兄弟を見送り、『おれも早く行きたい』と思いました。軍国主義の教育を、何の疑問もなく信じ切っていました。3年では宮津市栗田の海軍航空隊に軍事教練に行きました」

 同級生らによると、園部中では毎月1回、校庭のまん中にあった方位盤を5学年全生徒が囲み、「建国3000年、上に一系至仁の聖天子を戴(いただ)き…」と唱和した。卒業生は、次々に予科練や兵学校に進んでいった。

 「大阪鉄道局に就職後に応召され、勇躍行ったもんです。他に選択肢はなく、ひとつの価値観しか持てない。振り返ればこわい時代でした。陸軍上等兵として高知で敗戦を迎えたが、価値観の大転換で立ち直りに相当の時間が必要でした」

 実家には、手伝いの朝鮮人女性が住み込んでいた。口丹波にはマンガンなどの鉱山が300前後もあり、ここで働く朝鮮人もいた。

同級生らによると「旧制園部中は口丹波の児童のあこがれ」。難関校として知られていた。しかし配属将校の下、軍事教練など次第に戦時色を強めていた(1942年ごろ。俣野文夫さん所蔵の卒業アルバムから)
 「小学生のころ、鉱山で働く朝鮮人が背中にたくさんの荷物を背負い、道をよろよろ歩いている。疲れきってうずくまるとムチでぱちっと叩(たた)かれ、血を流しながら、はうように歩き出すんです。『同じ人間。なんてひどいことをやるんだ』と思い、中途半端な正義感で『なんでそんなことをするんですか』と叩いている人にたずねたら『子供にわかるか』と」

 国政に携わるようになったころから、戦時中を連想させることが増えてきたという。

 「テロ特措法案、イラク特措法案など重要審議が、後世の批判に耐える記名投票にならず採決されてしまう。国会議員は歴史的転換に責任があるのに一部議員を除き、疑問も感じないんです。

 日本はかつて中国に大きな傷跡を残しました。どのようにして戦争への道を歩んだのか。具体的に話し、警鐘を鳴らす必要性を強く感じたんです。それが私の責任で、戦争で亡くなった人たちへの申し訳だと思います。

 『何かおかしいぞ』という気持ちを若い政治家やふるさとの人たちに持ってほしい。先日の立命館大での講演では、園部町出身の学生から質問があった。うれしかったですねえ。今後は小中学校でも話したい。まず、ふるさと口丹波から始められればと思っています」(2004.8.12 掲載)

 のなか・ひろむ  1925年生まれ。園部町議、町長、府議、府副知事を経て国政へ。自治相、小渕内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。衆院当選7回。03年の衆院選直前に引退表明。園部町美園町在住。

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