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純朴な雰囲気に親近感 多士済々の卒業生と 今も交流続ける喜び 武田 智さん(元旧制園部中校長・京都市) |
「先生、転勤だよっ」。下宿で寝ていたところへ顔なじみの「丹州時報」記者が和服、下駄ばきでやってきました。一九四一(昭和十六)年、府立舞鶴高等女学校の校長だった私にとって寝耳に水の人事発令でした。
園部中は自他ともに認める名門で京都市内から通う生徒も。五年制、各学年三学級(一学級五十人)でした。幅広い分野に多士済々の卒業生を輩出し、衆院議員の野中広務君も当時の在校生。無口だが実にしっかりしており、えらい男になるなと思いましたが「まさかここまでやるとは」というのが正直な感想です。 保護者は熱心で学校に集まり、教職員と学校運営について話し合うこともしばしば。運動会は、校庭がぎっしり埋まるほどでした。職員リレーに出場、すべってころんだのはいい思い出です。 官舎近くの人たちにもたいへんよくしていただきました。母方の親戚の高齢の女性を引き取ったのですが、みなさんが何くれとなく世話を焼いてくれ、温かい土地柄だと感激したものです。 戦局が激しくなるに連れ、上級生が愛知県半田の海軍工場に動員されるなど、学校の雰囲気も変わっていきます。残念なのは新築されたばかりの理科実験教室が、疎開してきた大阪の造幣局に接収されたこと。「科学教育は必要じゃないか」と配属将校に掛け合いましたが、聞き入れられません。各教室は工場のように改造され、勉強どころではありません。 そんな時代でも生徒に勉強意欲はありました。動員先の工場での話です。亀岡・大井出身の佐野治巳先生らが、医大予科などへの進学希望者に声を掛け、昼間の労働で疲れた体にもかかわらず、動員先の工場で夜間補習を続けておられました。頭が下がる思いでした。 戦後、戦争協力者として私は教育界から追放されました。軍事教練をやりすぎたことなどが理由とされました。文部省に呼ばれた時、心配した何人かの生徒たちが一緒に行くと言い出し、涙が出そうになったものです。 今でも同窓会に招かれます。昔話に花が咲き、教え子の横顔を見て「立派になったな」と思える時、教育者としての喜び、誇りを感じるのです。 (2002.2.3 掲載)
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