わたしと戦後60年(4・完)

 戦争という過ち繰り返さず

  未来志向の国際関係築こう

金  己大 さん (元新潟国際情報大教授・東京都)


 朝鮮半島・固城郡(現在の韓国)から金さん一家が来日したのは、1933(昭和8)年。金さんが4歳の時だった。

 「なぜ日本に行くことを決めたのか、はっきり理由を聞く前に父は亡くなりました。父は、口丹波でケイ石やマンガンなどの鉱山で採掘労働者として働いていました。当時のふるさとは日本の植民地で、徴用を逃れようと親族が父を頼ってきたのを覚えています」

 「最初は川合村(現三和町)。その後は檜山村(瑞穂町)、吉富村(八木町)、大原(京都市)、上和知村と移り住みました。山村で6回転校しましたが、引っ越しでは貧しいため畳までトラックに乗せて移るんです。山道を10キロ歩いて通学したこともありました」

 小学生のころ、忘れられない出来事があった。「今に至るまでの原体験だ」と振り返る。

 「夏に同級生たちと毎日川遊びをしていて中耳炎になりましたが、お金がなく診察を受けられないため慢性化。片方が難聴のようになったのです。周囲の農家の同級生も貧しいが、米は食べられる。『朝鮮人はなぜ貧しいんだろう』という思いが、心の底におりのようにたまりました。この『なぜか』という思いを、持病のように今日まで絶えず反復してきたのです」

復元された方位盤。戦時中はグラウンドの真ん中にあり、在校生が囲んで国威発揚の言葉を暗唱していた(園部町小桜町・園部高)
 「朝鮮人ということで私に対するいじめがなかったとは、言えません。被害にあった人は、いつまでも忘れないものです。しかし、日本と韓国、北朝鮮などアジア諸国は今後、非難しあうよりも互いに学びあい、共存共生という未来志向でありたい。国同士も、個人個人もです」

 下和知小を卒業し、旧制園部中(園部高)に進学。戦前から戦中にかけて園中は、京都一中(現洛北高)の2倍程度の留学生を受け入れていた。

 「当時も今も同窓の縁でさまざまな友人と知り合え、山村育ちの私は目を開かされました。在学中、舞鶴の海軍工廠(しょう)に動員され、空襲の時は防空壕に逃げ込みました。雑音のひどい終戦のラジオ放送を聞き、ほっとしたのを覚えています」

 「一方、戦時中は、園中の校庭の真ん中にあった東西南北の方角を示す方位盤を在校生が囲み、『建国3000年…』と代表の生徒が暗唱する国威発揚の言葉を聞きました。その内容は軍国主義に基づいており、この考え方によって起こされた戦争で、アジアだけで何千万人もの戦争犠牲者が出ました。このことは忘れてはならないことです。独立国家として発展している現在のアジア諸国も、到底受け入れられる考えではないでしょう」

 「現在の園高は、国際理解や福祉を学べる課程のある学校になったと聞いています。若いみなさんは過去を踏まえ、戦争という過ちを繰り返さない高い志をもって平和、人権を考えていただきたいのです」(わたしと戦後60年、おわり)

 キム・キデ  1929年朝鮮・慶南生まれ。4歳で家族と来日。鉱山採掘労働者の父と船井郡各地などを移り住み、下和知小、旧制園部中卒。京都大卒。家族は金さんを残し、60年に北朝鮮に渡る。専門は朝鮮半島・北東アジア経済の比較研究。現在は日本、韓国・北朝鮮との交流についてボランティア活動を行っている。東京都東大和市在住。


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