アート新・古・今
京都の時空に遊ぶ《4》
 閉塞感ただよう世の中同様に、アートシーンもいまひとつ元気がない。それでも京都の歴史都市空間には、新しい芸術表現の種がまかれ、社寺の建築や庭園の造形、伝統文化が現代の美術表現のヒントともなってきた。そんな京都の時空を自由に歩いてみたい。
関根伸夫「位相―大地」と銀閣寺・ 向月台(下)

銀閣寺の向月台。江戸後期につくられるようになり時代の好みを映しつつ少しずつ形を変え現在の姿になった
 京都市左京区にある銀閣寺(慈照寺)は室町時代、足利義政の晩年に山荘としてつくられ、遺命によって寺院となった。北山文化の象徴である金閣寺(鹿苑寺)に対し、東山文化の代表的な遺構として名高く、ユネスコの世界文化遺産に登録されたことも周知のこと。総門を通り、銀閣寺垣の直線的構成の参道を通って境内に入る。庭園に足を踏み入れた人の多くが、まず目をみはるのは向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)だろう。白砂の造形に対する驚きと興味をつづった現代美術家と言えば、死後もなお人気の高い、あの岡本太郎だ。

▽二つの個性を魅了

現在の修整作業のひとこま。月に1、2回程度、庭職人たちの手できれいに仕上げられる

 昭和31年に出版した『日本の伝統』の“銀沙灘の謎”の章に生き生きとした文がある。

 「正直にいって、はじめて見たとき、私自身がギクッとしました。」「この盛り砂の形もふしぎです。いったいこんな形が、かつての日本美学の中にあったでしょうか。幾何学的でありながら、なんともいえぬ 非合理な表情をたたえて、いわゆるモダンアートにしか見られない、ふしぎに美しい形態です。」といった心の高ぶりがつづられる。京都の社寺の庭園は岡本を失望させるものが多かったが、銀沙灘や向月台は「私の発見したよろこびの、もっとも大きなものの一つだった」とも書いている。

 感激した岡本は、銀沙灘や向月台の造形美についてまとまもな論及がなされてこなかったことについて、「日本庭園史のなかの一つの穴、いや、もっとひろく日本美学の穴のようなものだとも言える」と不満を述べたあと、独自の考察を展開。銀沙灘の形態が庭全体を抱いて立つ月待山の峰の線とあきらかに対応していることや、月待山からのぼる月の明かりで銀沙灘が湖となり、向月台の頂上が満月となって輝き、地上から照らし返す幻想的な意味を込めたものであると想像力をはたらかせている。

 戦後わが国の現代美術の転換点となった「位相−大地」の作者、関根伸夫もまた、向月台や銀沙灘に魅了された1人であり、銀沙灘を海に向月台の頂上部を月に見る岡本と同じ見方に立っていた事実が興味深い。

▽無用の長物を生かす

「もの派」の展覧会は国内外で開催されるが、「位相−大地」は現存しないため写真パネルで展示される

 個性的な2人の美術作家の心をとらえた向月台と銀沙灘は、足利義政の時代からあったものではなく、時代下って江戸時代の18世紀半ば以降に生まれたとされている。ただ、どのような理由や背景のもと、だれが最初につくったのかなど、はっきりしたことはわかってはいない。江戸時代の観光ガイドブックともいうべき1780年刊の『都名所図会』にあらわれ、1799年刊の『都林泉名勝図会』にも、それぞれ絵入りで紹介されているが、2つの図会の20年近い年月のあいだでも銀沙灘や向月台の形態は異なっている。後者の方が、だんだん高くなっているものの、向月台はまだ円筒の台状に描かれていて今とは趣を違える。

 銀沙灘や向月台がつくられた背景について、歴史小説家の澤田ふじ子が『幾世の橋』で示した推論が面白い。“夏の庭”の章で庭師が語る推察−

 月待山から流れてくる水をひいた銀閣寺の錦鏡池には長い歳月の間に白川砂がたまる。浅くなって水があふれるため底をさらい上げる。それだけでも寺僧には大変な労力だ。さらにその砂を寺の外に運び出すとなれば人夫も雇う必要があるし費用もかかる。そこで1人の知恵者が平らにしたり砂盛りして庭の景観にすることを考え出した…。

 池から出た無用の長物を画期的な造形に変えた超芸術に通底する知恵でもあり、さらえ上げた白砂を盛り砂の形態に転位させた位相幾何学的なアイデアと呼応する着想だったとも言えそうだ。

▽時代とともに変容

 『都林泉名勝図会』から92年後の1891年出版された銅版画を『幕末・維新 彩色の京都』(京都新聞出版センター刊)で見ると、向月台の姿はずいぶん高くなり、しかもお椀を伏せたような形になっている。長い歳月のあいだに少しずつ形を変え、今に至っていることがわかる。

 現在の向月台は円錐台の底部の直径が3.2メートル、頂上部の直径が1.2メートル、高さが1.55メートル。岡本太郎が見た当時より、少し高く、富士山の型のイメージが強まった感もある。大雨で荒れた後など月に1、2回程度の修整が庭職人の手によって行われている。

 ある日の作業を見る機会があった。荒れた表面の白砂を池の水をかけながら短い鉄の歯を櫛形に並べたレーキのような道具で削り落としていく。底部周囲にたまった砂を木製の四角いこてを巧みに使いながら、左官的な作業も巧みに少しずつ上塗りし全体を仕上げていく。「位相−大地」もまた外枠をはずしたあと、表面部の穴のあいたところなどを左官の仕事のように手直ししたと、関根から聞いた。向月台の表面部の砂を削り落としたときに池の水をかけて濡れていたせいもあるが、砂というより土の凝固した姿のように見えたことも「位相−大地」との対比で私には興味深かった。

▽不在という「永遠性」

 つくられた理由も作者も不明のまま、時代の好みを写しながら少しずつ形を変え無常を生きる向月台。制作者も意図も明らかで、戦後の日本美術の画期的な作品となりながら、1回限りの作品として消失し、今は言説として語り継がれる「位相−大地」。昨年秋から暮れにかけて和光大学の学生たちが、「位相−大地」の再制作に挑んだ。環境美術家として国際的に活躍する現在の関根から話を聞き、制作時の写真記録などを参考に同じように試みたが、完了し外枠をはずした途端、瞬時に崩壊した。関根の「位相−大地」の一回性は、今は存在しないということで、「永遠性」を生きている。=敬称略

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