アート新・古・今
京都の時空に遊ぶ《6》
 閉塞感ただよう世の中同様に、アートシーンもいまひとつ元気がない。それでも京都の歴史都市空間には、新しい芸術表現の種がまかれ、社寺の建築や庭園の造形、伝統文化が現代の美術表現のヒントともなってきた。そんな京都の時空を自由に歩いてみたい。
「北野天神縁起」の落雷場面とザ・プレイの「雷」 「怨霊」と今のユーモア

国宝「北野天神縁起」の中の御所清涼殿への2度目の落雷の場面。陽気でエネルギッシュ、どこかおかしみを誘う見事な描写だ(北野天満宮提供)

 天空をはしる稲妻。バリバリと天地とどろき、地響きもろとも襲う落雷。雷がなぜおきるのか科学的知識をもたなかった古代の人びとは、雷におびえ、落雷被害を怨霊(おんりょう)の祟(たた)りと考えた。

道真の怨霊の祟り

 平安の大宮人が雷となって襲う怨霊として最も脅えたのが、京都市上京区の北野天満宮の祭神、菅原道真(845ー903)である。今は「学問の神様」として信仰を集め、受験シーズンになると全国から多くの人が合格祈願に訪れるが、道真の呪いを封じ怨霊を鎮めるために創建されたのが北野天満宮である。

 「北野天神縁起絵巻」は、道真の伝記や怨霊となった説話、北野天満宮創建の経緯などを絵と詞書きで表した絵巻。20種類もの遺品が現存するが、根本縁起と呼ばれる承久本「北野天神縁起」(北野天満宮蔵)は、文字どおりの白眉(はくび)、国宝に指定されている名品だ。

 絵巻は、道真少年が早くから詩才を発揮し、文武ともに注目され、宇多天皇や醍醐天皇の信任を得て、右大臣の地位までのぼっていくようすを描いていく。出世の勢いに脅威を感じた左大臣、藤原時平(ときひら)に陰謀をめぐらされた道真は太宰府に左遷され、悲嘆と失意のうちに死ぬ。亡霊は大怨霊となり、流罪にし追放した人びとを襲う。絵巻のハイライトは道真の亡霊がすさまじい稲光と雷となって宮中を襲い、御所の清涼殿に落ちるシーンだ。

 清涼殿への落雷は二度あった。一度目は雷となった道真の亡霊が宮中の貴族をこっけいなまでに吹っ飛ばす。刀で立ち向かう政敵の藤原時平の姿も描かれるが、やがて両耳から青竜が出るなど悶(もん)死してしまう。二度目の落雷では貴族の何人かが雷に打たれて死に、醍醐天皇もショックで病を得て死ぬ。疫病の流行や水害、干ばつ、飢きんに苦しんでいた都の人々は、雷となって襲う道真の祟りに恐怖のどん底においやられた。

京都の街をすさまじい稲光とともに襲い落ちる雷(99年10月2日、京都新聞社屋上から撮影)

明るくて陽気

 こう書くと、おどろおどろしくなるのだが、北野天神縁起の清涼殿落雷シーンにあふれるのは、明るくてエネルギッシュな陽気、ユーモラスな笑いである。

 「こんなに天真爛漫にほがらかで、邪気がなくおおらかで品があって上等で、しかも公然たる大笑いをしているような絵は、他に見たことがないような気がする。《北野天神縁起絵巻》の魅力の根源はここだろう」と書いたのは橋本治著『ひらがな日本美術史2』(新潮社刊)。「派手で陽気でエネルギッシュで楽しい」トーンは、江戸時代に大和絵の復興をめざした俵屋宗達ら江戸琳派に受け継がれ、「風神雷神図屏風」にも脈打っているとも指摘している。

 落雷シーンにあふれる陽気な楽しさは、菅原道真が天満大自在天神としてまつられ、最強の怨霊から学問の神様へと転位していく背景の色合いでもあろうし、時代ははるか下って現代のパフォーマンス(行為)集団「ザ・プレイ」が、10年間にわたって行った「雷」の取り組みのユーモアにも通じている。

 ザ・プレイの「雷」は、京都府の東南部、相楽郡和束町の鷲(じゅ)峰(ぶ)山(標高685メートル)の山頂に400本の杉丸太を組んで一辺20メートルの三角錐を構築し、その頂上部に避雷針ならぬ導雷針(落雷を誘う導線)を立てて、落雷を待った。事前に大阪管区気象台から過去10年間の雷のデータを入手、落雷の多発地帯を選んでのスタートだった。だからメンバーのほとんどが雷はすぐに落ちるだろうと考えた。雷の導線が地中に入るまでの途中に時計仕掛けの記録装置を取り付け、落雷があった日時が証拠として記録される準備も万端だった。

 ところが1977年の最初の年も、2年目も空振り。ザ・プレイ10数人のめんめんは毎年、山頂に400本の丸太を運び上げ、三角錐に組んで、夏場の6−9月ひたすら待った。落ちなければ解体し、翌年おなじように待つ。3、4年目には200メートルほど近くに落ちたが、三角錐への落雷はなかった。そして待つこと10年、一度も落ちないまま「雷」の行為は終わった

 何百本もの丸太を山頂にかつき上げ、暑さや雨のなかで三角錐に組み立て、雷を待つ無償の行為。陽気でエネルギッシュ、あっけらかんとしたユーモア。ナンセンスでバカげていると思う人もいよう。ザ・プレイのめんめんにとって丸太を組むことは精神を組むこと。落雷を待つという行為は、メンバーひとり一人の心にその意味を内在化させていった。

待つ無償の行為

行為集団「ザ・プレイ」が1977年から10年間行った「雷」のパフォーマンス。和束町の鷲峰山山頂に丸太400本で一辺20メートルの三角錐を組み、頂上に導雷針をつけて落雷を待った(池水慶一氏提供)

 「最初は雷を落とすことが目的でしたが、続けるうちに待つということが意味をもつようになった。日常的な時間から距離を置き、雷に天地自然の崇高なエネルギーを感じた古代からの悠久の時の流れを感じとったり、簡単に落とせると考えたさかしらな人智をはるかに超えた自然への畏敬(いけい)を持ったり、『雷』の行為はさまざまな思いを残して終わりました」と主要メンバーの美術家、池水慶一は回想する。

 ザ・プレイの「雷」が始まった1977年、米国ではウォルター・デ・マリアがニューメキシコ州の砂漠地帯につくっていた「ライトニングフィールド(稲妻の野原)」が完成した。デ・マリアはランド・アート(大地の芸術)と呼ばれた美術動向を代表するアーティストのひとり。ライトニングフィールドは、砂漠地帯の縦1・6キロ、横1キロの面積に400本のステンレス・スティールの竿(さお)を約67メートル間隔で立てて規則的に設置したプロジェクト。大地に広いアンテナの網を張った状態だから、こちらは落雷が今も年に数度はあるようだ。恒久的に設置されており、現在も小型飛行機などによる鑑賞ツアーが組まれたりしている。

 アメリカ南西部の砂漠地帯で今も続くライトニングフィールドのショー観光的な空間スケールと、京都府東南部の山頂で10年間続いて幕を下ろしたザ・プレイ「雷」の悠久の時間と自然への畏敬。雷をめぐる日米の現代美術表現に彼我のアートの差が反映している。=敬称略

[ 戻る ]

<バックナンバー>
◆アート新・古・今 《1》 《2》 《3》 《4》 《5》 《7》 《8》 《9》 《10》 《11》 《12》 《13》 《14》 《15》 《16》

◆ひとARTALK ◆発動 京都の工芸 ◆挑発する美術家たち