アート新・古・今
京都の時空に遊ぶ《9》
 閉塞感ただよう世の中同様に、アートシーンもい まひとつ元気がない。それでも京都の歴史都市空間には、新しい芸術表現の種がまかれ、社寺の建築や庭園の造形、伝統文化が現代の美術表現のヒントともなっ てきた。そんな京都の時空を自由に歩いてみたい。
釘抜地蔵の絵馬と吉仲太造の「現代美術」 苦を抜く信仰と苦を背負った絵画の優しさ

釘抜地蔵堂の周囲の壁面には、2本の釘と釘抜きをセットにした絵馬がずらりと並び、独特の景観をつくる

 京都市上京区の千本通上立売を少し北へ進んだ右手。参道を進むと、すぐに「釘抜(くぎぬき)地蔵」で知られる石像寺がある。お年寄りや最近は若者のお参りも多く、線香やローソクが供えられて、庶民信仰の生きた寺を感じさせる。

 本尊の地蔵尊は、弘法大師が唐からの帰朝時に持ち帰った石で彫ったと伝えられ、人々の苦しみを抜き取ってくれるということから「苦抜き地蔵」と呼ばれていた。それが「釘抜地蔵」に変わったのは、こんな言い伝えからだ。

1000枚が整然と配置

故堂本印象が自らデザイン奉納した釘抜のモニュメント。台座は日本画家・岩澤重夫のデザイン。

 室町時代後期の弘治2年(1556)のこと。京の有数の大商人だった紀の国屋道林という人物がいた。40歳のころ、わけもなく両手が痛み、治療したが効果がない。あまりの痛みに苦抜き地蔵のことを聞き、願をかけた。満願の夜、夢に現れた地蔵が「お前の両手の痛みは前世に人を怨(うら)み、人形の両手に八寸釘を打ち込んで呪(のろ)ったからだ。その釘を抜き取ってやろう」と言い、二本の釘を指し示した。夢から覚めると痛みは嘘のように消えていた。早速お礼参りに駆けつけると地蔵の前に血の付いた二本の釘があった。二本の釘と釘抜きとをセットにした絵馬を奉納するようになったのは、この頃からの習わしという。

 横20センチ余、縦30センチほど。同じサイズの絵馬がずらりと並ぶ様子は強い印象を残す。その数は千ほど。地蔵堂の外側の壁面や軒下などに整然と配置されて壮観だ。現代美術に親しんできた人なら、同一の色や形が均等に配置されるミニマルアート的な絵画の面白さを覚えるだろう。

 特色あるデザインで地蔵堂の正面に立つブロンズ製の大きな釘抜きを寄進したのは、文化勲章受章者の日本画家、堂本印象だ。98歳で亡くなった母・芳子の回復祈願をしてもらったお礼に自らデザインして奉納した。1964年の銘がある。

釘による現代の表現

吉仲太造が釘を使った連作絵画の一つ「現代美術」(1963年、静岡県立美術館蔵)

 釘は身近にある日常的な物質だ。木や板を打ちつけ組み立てていく構築的な側面と同時に、傷つける道具にもなって破壊のベクトルも併せ持つ。釘という物質を素材に使った現代の美術表現では、京都出身で東京で活動した故吉仲太造(1928−1985)の絵画が思い浮かぶ。ドイツのギュンター・ユッカー(1930−)のように釘を大量に使い、尖っていたり鈍く光る金属的特質とともに創造と破壊という相反する両義性を織り込みながら「人間による人間の侵害」という重いテーマで創作を続けるアーティストもいる。

 京都に生まれ幼いときに患った小児マヒで左足が不自由となった吉仲は、第二次大戦後の混乱期に絵画の道を歩み始めた。24歳のときに上京、以後は東京を拠点に活動した。河原温や岡本太郎らとの交友を通して、才能が注目され、脚光を浴びた時期もあるが、作風を変転させつつ、華やかな表舞台から距離を置き、孤高の制作に沈潜していった。釘を使った絵画が始まるのは60年代の前半。内面の鋭い感受性や繊細さの自己韜晦(とうかい)であるかのように、タコを派手な色彩のグラフィック感覚で描いた「地球人」など無価値やナンセンスなものに絵画の積極的な意味を賭(か)けた作品などを経た時期からだ。生活や日常の象徴として釘を登場させた背景には、「物質のもつ無意味性、そのつれなさにひかれて、従来の加えて作り上げていく絵画とは異なったものを作ってみたい」という意図があった。

 「現代美術」と題した作品は釘絵画の連作の一つだが、ここには釘の暴力性はみじんもない。ていねいに並べて寝かせ、綿でくるみ、リボンで飾り、さながら安眠させるかのような優しさが印刷紙をコラージュした画面に漂う。

 釘の扱い方に見られる優しさは、新聞の株価や不動産の数字や金額だけの紙面をコラージュした「ゲーム」や「大いなる遺産」の作品など、土地投機や欲望の肥大を背景にしたバブル経済の狂乱をはるか以前に予見していたかのような洞察力にもつながっているし、うつ病の発作と闘いながら描き続けた70年代以降の作品や、最晩年の「心の静物画」ともいうべき白いペインティング「非色絵画」の静かな瞑想(めいそう)的な祈りの韻律にも通じている。

構築と破壊の両義性

ギュンター・ユッカー「Feuerstelle(かまど)」(1992年)=ギュンター・ユッカー展図録から

 ギャンター・ユッカーが初めて釘絵画をつくったのは1957年。62年以降は日用品への釘打ちが始まり、釘作戦ともいうべき表現が展開する。旧東ドイツに生まれ思想的にも文化的にも挫折や矛盾を経験しなければならなかったユッカー自身にとって、心の不安や動揺を視覚的に表現する術でもあり、釘は彼のトレードマークになった。等間隔に打ち込まれた釘の頭が均一で立体的な動きを浮かべるような作品や、尖った先端が攻撃的に見る者に向いた作品。傷つけたり傷つけられる主体と受け身のありよう、構築と破壊という両義性、釘がもつさまざまな表情と形態を織り込んだユッカーの表現は、「人間による人間の侵害」という旧約聖書の時代から現代もなお続くテーマとなって、近年は表現のインパクトを深く強いものにしている。

 このほど伊丹市立美術館と栃木県立美術館で開かれたユッカーの展覧会は、テロや拉致(らち)、虐待、殺害…と毎日のようにメディアが伝える「人間による人間の侵害」へのユッカーの抗議と、深い悲しみの表れとしての作品が並び、心に迫った。  庶民信仰として今も生きる釘抜地蔵もあれば、現代の絵画を問う苦悩や悲しみを背負った現代作家たちの生き方の肖像としての釘の表現もある。釘にまつわる信仰と美術の綾も親しみ、優しさ、憤りと哀しみ、色々だ。=敬称略

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