伊藤若冲の眼とまなざし
時評小林昌廣さん

 昨年、お茶のペットボトルのパッケージに伊藤若冲(1716−1800)の『動植綵絵』などの一部が用いられ、少なからぬ話題を呼んだ。お茶の成分がより自然に近いものであることと、若冲の奔放な自然観とは相容(い)れないように見えるが、若冲絵画のもつ強い生命感をお茶の中味にも浸(し)みこませたかったのかもしれない。

 その若冲の作品約二十点が、新たに特集陳列として京都国立博物館で展示されている。没後二百年を記念した大規模な若冲展(2000年)では見ることのできなかった作品と出会うことができた。

 描く対象への観察眼、大胆な構図、圧倒的な色彩と描法など、若冲に対するほとんど普遍的なイメージが今回の特集陳列で変更されたわけではない。いくつかの群鶏図に見られる雄鶏(おんどり)の鶏冠(とさか)の鮮やかさと雌鳥や雛(ひな)鳥の優美と華奢(きゃしゃ)や、『墨竹図』や『石灯籠図屏風』に見られる空間構成の見事さ、そして動物擬人画という固有のジャンルを与えたくなる『猿図』の不思議な世界。どれもが「若冲らしさ」をより際立たせてくれるものばかりだった。

 だが、改めて若冲の作品の前に立って思うのは、彼の「物質的偏執」とでもいえる性質である。対象が人物でも神仏でも動植物でも、あるいは空でも雪でも、若冲は私たちが無意識に秩序づけてしまっている順列のようなものをいったん解体して、あらゆる対象を同一の物質的存在として扱い、そして描いているのだ。だから、最晩年に描かれた『百犬図』は、おびただしい犬たちを描くことと、犬たちの実に多様な色柄を描くことは、「物質」という意味においてはちがいがない。若冲にとっては「存在」だけがそこにあるのだ。八十歳を過ぎた若冲にとっては、犬や色の数という数字もまた物質的偏執の領域内であったのかもしれない。

 あるいは釈迦の涅槃(ねはん)図をすべて野菜や果物によって構成した『果蔬涅槃図』は、若冲一流の「世界の植物化」という手法によって描かれたものだが、仏教的な世界と野菜や果物の世界を、それこそ物質的に同一化してしまった稀有(けう)の作品と見るべきだろう。そう見るべきだが、中央に臥(が)している釈迦に見立てられた大根は二股になっており、やはりどこかコミカルである。若冲は、植物化・擬人化・神格化という三つの過程をアクロバティックに描きだしたのだ。この『果蔬涅槃図』を見た眼で、以前の特別展覧会で展示された『付喪神図』を見れば、若冲の「物質的偏執」がより強く感じられることだろう。何よりも付喪(つくも)神は、古くなった食器や調度品に憑(つ)く神霊なのだから、どこまでも物質に依拠しながら存在しつづけるのだ。

 お茶のペットボトルのパッケージになぜ若冲が用いられたのかはわからないが、若冲の作品そのものが生命や自然を睥睨(へいげい)する護符のようなものとして機能していると考えたのだとしたら、なかなかの目利きが若冲を選んだのかもしれない。

 特集陳列「若冲」は2005年3月27日まで京都国立博物館=東山七条=平常陳列館で開催中。有料。

 写真(左)=こばやし・まさひろ氏 京都造形芸術大学芸術学部教授。1959年生まれ。大阪大学大学院医学研究科博士課程修了。専門は舞踊美学、芸術社会学。著書に『病い論の現在形』『臨床する芸術学』など。

 写真(右)=伊藤若冲「果蔬涅槃図」

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肯定的な時間の記念碑 河原温の〈日付絵画〉に思う
時評篠原 資明さん

 1966年から、制作日と同じ日付を描きつづけている芸術家がいる。河原温だ。その河原温展「意識、瞑想、丘の上の目撃者」が豊田市美術館で開かれている。2002年に開始された国際巡回展である。当の絵画は、《Today》シリーズという。〈日付絵画〉とも通称される。今回は、1966年から2005年までの〈日付絵画〉から、各年のひとつの日曜日を描いたものが選ばれ、展示されている。本展は2002年に始まったから、巡回する中で、新しい〈日付絵画〉が加わっていく。こうして、今年の1月2日に描かれた絵画が壁に掛けられることとなった。

 最初の展示室には、1966年から1989年までの〈日付絵画〉が展示されている。床に傾斜して置かれた大理石に、各1点ずつ載せられているのだが、1966年の1点だけは、正面の壁に掛けられていて、ひとつの大理石だけが、いわば空席のままだ。このように展示されると、ひとつひとつの日付が墓碑銘のように感じられてくる。時間の記念碑といってもよい。それを思えば、日曜日ばかりが選ばれたのは、意味深長だろう。1週間の最初を飾る日は、日曜日という日本語にも反映されているとおり、まさに太陽の日なのだ。〈日付絵画〉の白い日付は、夜が明けそめる太陽の輝きとも映るとすれば、日曜の日付こそ、その絵画にふさわしいともとれるだろう。

 ほかの会場でどうだったか、知るよしもないが、本会場では、この展示室の模様が、ほかの展示室へと移動する合間に、少なくとも2度俯瞰された。そのたびにより高くから見おろすことになるのだから、結果的に「丘の上の目撃者」となったように思われたのだ。

 ある意味で〈日付絵画〉の対極に位置するのが、《百万年−過去》と《百万年−未来》だろう。前者では、998031BCから1969ADまでの西暦が、後者では、1981ADから1001980ADまでの西暦が、数字をタイプされ、バインダーに綴じられてある。それぞれが10巻、計2000頁、あわせて20巻4000頁に及ぶ。白地に黒という刻印スタイルといい、また、基本的にほとんどの頁が閉じられたままというあり方といい、ここでは、時間を示す記号は、まさに闇の中にある。

 《百万年−過去》の最初の頁には、「生きて死んだすべての者たちのために」、《百万年−未来》の最初の頁には、「最後のひとりのために」と、それぞれ英語でタイプされてある。生と死の部厚い重なり合いを示すこれらの《百万年》と対極にあるかのような〈日付絵画〉にせよ、すでに、死んだ日付として輝いている以上、生と死は確かに重なりのうちにある。重要なのは、それらの時間がいずれも否定されえないものとしてあることだ。

 《I Am Still Alive 》としるした電報も、133点展示されている。この文面が《I Am Not  Yet Dead》という否定形でないことの意味は大きい。時間とは、あくまで肯定的で積極的なものなのだ。いうまでもなく、生きたものだけが死ねるのである。

 「河原温 意識、瞑想、丘の上の目撃者」は2005年2月27日まで豊田市美術館(TEL0565・34・6610)で開催されました。

 写真(左)=篠原 資明氏(しのはら・もとあき氏) 1950年生まれ。京都大学文学部卒。東京芸大講師などを経て現職。哲学・美学専攻。詩人。著書に『五感の芸術論』『まぶさび記』ほか。詩集に『物騒ぎ』など。

 写真(右)=河原温〈日付絵画〉の展示

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魅了する「美しき日本の絵はがき展」
時評田島 達也さん

 日本発の美術が、海外で先に評価を得て日本でも人気が出るという例は、浮世絵から現代美術まで枚挙にいとまがないが、いま全国巡回中の「ボストン美術館所蔵 ローダー・コレクション 美しき日本の絵はがき展」によって、明治−昭和の絵はがきもその一つに加えられるようになるかもしれない。

 明治6年に初の官製はがきが発行され、はがきは国民の通信手段として急速に普及した。明治33年に私製はがきが認められ、多種多様な絵はがきが作られるようになった。特に日露戦争期には、出征した兵士とのやりとりや、戦勝記念絵はがきの発行などによりブームが加速した。その時々の風俗と美術様式を反映した美しい絵はがきの数々は、昭和初期に至るまでその輝きを保ち続けた。浮世絵で培われてきた精巧な印刷技術と洒脱(しゃだつ)なデザイン感覚の絵はがきは、まさに当時の日本だけが生み出し得た宝石のごときものに思われる。

 こうした絵はがきの収集は、以前から日本でも熱心なコレクターによって行われてきた。しかし今回、2万点あまりのコレクションから幅広く選ばれた作品群によってその全体像が目に見える形となり、ボストン美術館という看板を背負った特別展として公開されたことにより、一般の美術ファンにも改めて「美術」としての認識が広がったのではないだろうか。いや、高みの見物みたいな物言いはよそう。私自身がこの展覧会によって絵はがきの美しさに魅了されてしまったのだ。

 絵はがきを手がけた画家には、浅井忠、藤島武二、梶田半古、竹久夢二など著名な画家がいる一方、無名あるいは作者不詳の作品も数多い。そして中には、名前だけは知られているものの、経歴がよくわかっていない画家もいる。大正から昭和初期にかけて活躍した小林かいちもその1人だ。かいちの作品は、今回の展覧会でもひときわ異彩を放っていた。様式的には当時流行のアール・デコとのつながりが強いとされる。確かにモダンでスタイリッシュな画面構成はアール・デコ調だが、そこに描かれた女性が醸し出すロマンティックな情感は、竹久夢二を想起させる。この不思議な組み合わせは、1度見ると目に焼き付いてはなれない。特に、和装の女性をトランプや洋酒のグラスと組み合わせた「彼女の青春」や、中国服の女性が時計や船をバックにした「君待つ宵」などは、その代表だろう。

 この小林かいちを研究している、同志社大学大学院生の山田優子氏によると、かいちの作品は絵はがき、絵封筒、便箋(びんせん)をあわせて700点あまりが確認されるという。出版元は京都のさくら井屋である。現在も新京極三条で絵はがきなどを売っているあのお店だが、かいちについての資料は残っていないらしい。もっぱら京都で売り出されていることから、京都の人か、少なくとも京都とかかわりの深い人物と想像されるが、今のところ有力な手がかりはないという。昭和初期ともなると、当時のことを覚えている人はもう少ないだろうが、そこは伝統ある京都のこと、これを機に新たな情報が上がってくることを期待したい。

  「美しき日本の絵はがき展」は2月20日まで名古屋ボストン美術館=名古屋市中区金山町=で開催中(月休)。京都では5月下旬から細見美術館で開催。

 写真(左)=田島 達也氏(たじま・たつや氏) 1964年生まれ。京都大学大学院博士課程中退。北海道大学を経て現職。専門は近世絵画史。論文に「『平安人物志』を読む」など。

 写真(右)=小林かいち「2時25分『春待つ宵』より」

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先ずMUZZより始めよ 若者発信スペース
時評清水 穣さん

 画廊巡りには、美術館の企画展に足を運ぶのとはまた別の面白さ、つまり未(ま)だ無名の同時代の作品に対し自分の美意識を試すという誘惑がある。しかし京都のどこへ行けば新鮮な、内輪の優等生でない、現代美術の若手作家が見られるだろうか?これだけ芸大が揃(そろ)う都市にその分野の商業画廊は片手もないというのに。

 「学生」という名のお客様のご要望を満たすサービス業者として各大学は様々なアートスペースをオープンさせているが、いかんせん大学の名前が重く、その本質が顧客サービスなので、プロのアート業界からは真面目に取り合ってもらえない。つぶしのきかないフリーターに、貸画廊を借りる金などあろうか。

 と愚痴るより、京都に自力でアートの場を立ち上げてしまおうと、池田和正、高橋耕平、出口尚宏、吉岡康介の元芸大生4人は集まった。彼らの完全にインディペンデントなその組織は「マズ・プログラム・スペース」。白川通は浄土寺近く、それ自体が現代美術のような古い下宿屋の1階を自分たちでリフォームして、広く美しい空間を実現した。

 去年発足して以来、下宿屋の家賃とわずかな協賛だけで次々とすぐれた企画展を開催し、しかも全国区で着実に美術関係者の支持を集め始めている。京都から発して京都という井を出るという、かつて貸画廊も大学も公共機関も出来なかったことを、30歳前の若者が低予算で自然体のままに達成しつつあるのだ。しかし、評価の定まらない若手作品にどのように接するか。極端な例を二つあげてみよう。目利きと呼ばれたい人はすべての新人を誉(ほ)めよう。数年のうちに駄目な作家は自然消滅し、消えた作家を誰(だれ)が評価していたかに関心を払う人はいない。目利きの直感に理由はないとでも言えば、あなたは生き残った作家を初めから評価していた目利きの人だ。

 他方、言い放しの目利きゲームに加わらない人は、ある作家がオリジナルだと判断するための理由が要る。が、説明や理由がつかないからオリジナルだとも言えるわけで、そのとき「理由」は消去法で代替される。例えば「工芸はアートではない」。工芸といっても、現代美術に氾濫(はんらん)し嘆かわしくも多くの関係者の目を眩(くら)ませている工芸のことである。本質的な部分は全て既知の要素で出来ており、作品はその巧みなヴァリエーションにすぎない。工芸的技術の優位と過剰が空疎な内容を隠しているのだ。

 無論、技法をもたず単に下手な作家はありえない。アーティストは手で考える存在である。工芸的作家は、考える代わりにエフェクトを計算するのだ。技巧とエフェクトに弱い人はアートと(そして本当の工芸とも)無縁である。

 さて、頼る価値のない現代美術という世界で、自分と同世代の作家を選んで企画を立てるのはなかなか困難なことである。マズには芸大の理論系と実作系出身のメンバーが揃っていることもあり、その企画は批評者と制作者の両方の視点を兼ね備えている。消去法で大鉈(なた)をふるうのでもなく八方美人の目利きでもない。あるいは直感的な目利きであると同時に消去法を援用する。このバランス感覚が優れた新人たちを探り当てるのである。

 「IncidentalSublime:政田武史+ロバート・プラット」展は1月半ばまでマズ=左京区浄土寺馬場町71=で開催中。

 写真(左)=しみず・みのる氏 1963年生まれ。同志社大学言語文化教育研究センター助教授。東京大学大学院博士課程中退。専門は現代芸術論(電子音楽、写真論)。主な著書に『白と黒で写真と…』(現代思潮新社)など。

 写真(右)=(上)政田武史/ロバート・プラットの作品が並ぶ会場 (下)マズ・プログラム・スペースの一階入り口

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過去はいつでも新しい〜岩佐又兵衛の世界
時評小林昌廣さん

 岩佐又兵衛(1578−1650)と聞いてもピンと来ないかもしれないが、文楽や歌舞伎に登場する「浮世又平」と聞けば、あるいはうなずく人もいるだろう。近松門左衛門によって著わされた逸品『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』のなかの主役の一人である。実際の又兵衛の死後60年近くたって初演されたこの作品によって、江戸の人びともこの絵師の名を知ったのではあるまいか。

 もちろん、実際の絵師は近松が描いたように、吃音のために「土佐」の名字を与えられずに、大津絵を描いて妻おとくと貧しい暮らしをしていたわけではない。だが、いかなる流派にも帰属せず、さまざまなジャンルの絵画を奔放に描きつづけた又兵衛に、近松は吃音というハンディを与えることで、江戸期の市井の人びとと同じような人間味を装わせたかったのかもしれない。

 実のところ、又兵衛の作品は冗舌であった。しかも、又兵衛研究の第一人者辻惟雄の表現を借りれば「奇想」の絵師であった。

 千葉市美術館で開催された「伝説の浮世絵開祖 岩佐又兵衛」展(10月9日−11月23日)は、又兵衛の作品を大規模に扱ったものとしてはほぼ20年ぶりだった。連日多くの観客を集め、図録も完売だったそうだ。その図録の表紙にもなっている『伊勢物語 梓弓図』は、男の帰りを待ちくたびれた女が別の男と契りを結ぶまさにその晩に男が帰ってきて扉をたたいているという図柄である。木戸をたたく右手の指は類型的にならずに五本すべてが丁寧に描かれているが、これはのちの浮世絵における手の描き方を先取りしている。一方で、装束の柄や両足の開き方は独特の表現であり、ことに男(在原業平)の顔つきは、又兵衛が描く人物の特徴である「豊頬長頤(ほうきょうちょうい)」となっている。周囲の樹木や左手にもつ弓までもが表情をもつ、なまめかしい作品である。

 そうした技巧を凝らしたものがある一方で『人麿・貫之図』のようにほとんど完全な水墨画を見ることもできる。彼らの表情はどことなくひょうきんで、岩佐家に伝わる『岩佐家譜』にある「前人未だ図さざる所の体を写し」という又兵衛評に見事に合致している。

 そして今回の展覧会の白眉(び)であり、絵師又兵衛の名を決定的にした作品群が、一連の絵巻物、とくに『山中常盤物語絵巻』である。全12巻、展示された第3巻だけでも全長130メートルもある超大作だ。盗賊に母常盤を斬(ざん)殺された牛若丸がその仇をとる物語だが、第3巻は生き別れになった牛若の消息を常磐主従がたずねる場面である。情景と人物の描写がそれぞれ独立しているようでいて、次から次へと展開する絵巻世界によってそれらがひとつになってゆく不思議を、又兵衛は現在のアニメあるいは映画のように見せてくれる。実際、ドキュメンタリー映画監督の羽田澄子によって、この作品はもとの浄瑠璃(物語り)に新たに曲がつけられて映画にもなった。

 又兵衛の圧倒的な表現力と斬新な手法。その射程がどこまでのびているのか。昭和になって発見されたこの『山中常盤物語絵巻』もまた、平成の世にも輝きつづけているのである。

 写真(左)= こばやし・まさひろ氏 京都造形芸術大学芸術学部教授。1959年生まれ。大阪大学大学院医学研究科博士課程修了。専門は舞踊美学、芸術社会学。著書に『病い論の現在形』『臨床する芸術学』など。

 写真(右)= 「山中常盤物語絵巻」(重要文化財)・部分=MOA美術館蔵

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野村仁の新作個展に見る風雅モダニズム
時評篠原資明さん

 このところ、風雅モダニズムということを考えている。もともと風雅という伝統的な思想には、自然を友とするという基本理念があるのだが、それを、新しい芸術のあり方に適用できるのではないか。そう思っての、いわば造語である。人間による能動的な形成力を過信したモダニズム、その派生形として歴史的過去を友とするポストモダニズム。それらを経たのちの一種の第3の選択肢と思われるのが、風雅モダニズムだ。

 発想のきっかけを与えてくれたひとりが、20世紀の作家、稲垣足穂だった。その創作も思想も、天体を友とするというに尽きる。天体を友とすることにより、自分のありようも変われば、天体のありようも変わる。そんな二重の生成を、足穂は描き続けた。

 天体の風雅モダニズムともいえるあり方を、新たに示してくれたのが、野村仁である。1975年以後の《‘moon’score》は、写真により月と五線譜を写し込んだ作品だが、そのきっかけは、電線のむこうの月が音符に見えたことだったという。野村は、この作品をさらに音楽化し、のちにCDとしてリリースしさえした。1983年以後の《‘birds’score》では、鳥が登場するが、いうまでもなく、鳥たちは人以前から空を友とし続けてきた存在なのである。

 いま、大阪で開催中の新作展「chroma & chromatic」(アートコートギャラリー、11月6日まで)には、たとえば《Grus》のように、明け方の鶴たちを連写した作品が展示されている。五線譜が楕(だ)円形になっているのは、惑星の軌道を意識したものだろうか。以前から協力関係にある吹田哲二郎によるCDも添えられるなど、基本的に《‘birds’score》の延長線上に位置づけられる作品といってよい。

 ただ、色彩を意味する展覧会タイトル「chroma & chromatic」によるかぎり、今回の中心となるのは、《chromatist painting》と題されたシリーズだろう。とりわけ圧巻なのは、白い大理石に、スペクトルの鮮やかな色彩がさまざまな配列で並ぶ作品だ。さらにとまどわせたのは、《Octopusic Conversation》(直訳するとタコの対話)という部厚い4巻本である。というのも、それらもやはり「chromatist」と名づけられており、事実、中の頁には、同様にさまざまな配列の色が帯状に並んでいるからだ。作者に聞いたところ、タコ同士が体の色で行なうコミュニケーションが発想源のひとつだったという。

 人間以外の生命体は、予想外の感性を示す。そのことへの驚きが、ぼくたちの感性の思いがけない可能性を目ざませもするだろう。それもまた、自然を友とする帰結にほかなるまい。聞けば色彩は、野村自身のコードにより言語としてシステム化されているとのこと。このタコ語でもあれば野村語でもあるという色彩言語により、芸術と生に関する文ないしは命題が綴(つづ)られているのだ。新たに豊穣なシリーズが開始される予感をおぼえる。

 写真(左)= しのはら・もとあき氏 京都大学大学院人間・環境学研究科教授。1950年生まれ。京都大学文学部卒。東京芸大講師などを経て現職。哲学・美学専攻。詩人。著書に『五感の芸術論』『まぶさび記』ほか。詩集に『物騒ぎ』など。

 写真(右)=野村仁「Grus」(2004年)の作品が並ぶ展示

 写真(左)=野村仁「chromatist painting」(2004年)から

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「新説・京美人」展に思う いまは第二の昭和初期?
時評田島達也さん

 「東男に京女」と言うように、昔から京美人の人気は高かった。江戸っ子の滝沢馬琴も、上方への旅行記『覊旅(きりょ)漫録』の中で、「京によきもの三ツ、女子、加茂川の水、寺社」と京都のベスト3に数えている。そんな京美人のイメージを、絵画を通して探っているのが、京都市美術館で11月7日まで開催中の「新説・京美人」だ。

 京都の美人画といえば、かつては上村松園に代表される、理想化された美人像が代表的なイメージだった。しかし、1980年代以降、にわかに甲斐庄楠音や岡本神草らをはじめとする国画創作協会系の作家が注目され、大正期の美人画が大人気になった。

 化粧の匂(にお)いがむっとするような、生々しい女の表現は衝撃的だった。こうした作品を次々発掘し紹介していたのが、星野画廊と京都国立近代美術館だった。それに対し京都市美術館は、正統派京都画壇を軸とする路線を保ち、上村松園・竹内栖鳳を中心とした展覧会に力を入れていた。当時は平安神宮の鳥居をはさんで、対照的な京美人がにらみ合っているような気がしたものだ。そしてこのような「きれい系」の美人画と、「生々しい系」の美人画が、京都では江戸時代から続く二つの系譜であることを示したのが、京都文化博物館の「京の美人画展」だった。京都の浮世絵師祇園井特による芸妓や舞妓のリアルな肖像のインパクトは、大正日本画に匹敵するものがあった。大げさにいえば、20世紀末期は、京美人のイメージが大きく変動した時代だったといえるかもしれない。

 世紀が変わった今、京都市美術館が満を持して京美人に取り組むこととなった。江戸後期の祇園井特や幕末明治の円山四条派、明治の洋画、大正日本画、上村松園をはじめとする女性画家など、幅広い種類の作品を集めている。一見すると総花的で、二番煎じに感じるかもしれない。しかし私がここで強く感じたのは、きれい系の復権だ。

 何とはなしにきれい系の作品の方が光って見え、大正風の絵がくすんで見える。これは出品作の中心が昭和前期のもので、そこに目が慣らされる、という展示方法のせいでもあるが、それはまた意図的・必然的なものだった。京都市美術館がオープンしたのは昭和8年。その前後から始まった美術館のコレクションは、図録の言葉を借りると「大正期の生々しくリアルな表現が収束し、クールで知的な表現が中心となって」いるという点に特徴がある。クールで知的というと、菊池契月の白描画のような美しさをまず第一に思い浮かべるが、大正期には「生々しい系」の代表だった梶原緋佐子なども、このころには端正な美人画に変わっていく。かつて保守的に思えた京都市美術館のコレクションだが、大正日本画ブームを経験した後で見ると、昭和初期の人が感じたであろう新鮮な印象が湧(わ)いてくる気がするから不思議だ。

 こうした空気の変化は、展覧会の中だけではなく、社会全体に共通した傾向かもしれない。現代日本画の潮流も然りだ。重厚な表現よりも、軽くきれいなタイプの絵が若い人に増えている。美人ということばの使われ方にも変化を感じる。80〜90年代には、ミスコン反対運動が起きたりして、女性に美を求めることがはばかられる空気があった。現在ではみんな美人顔のメイク術に一生懸命だ。

 今は第二の昭和初期なのかもしれない。

 写真(左)= たじま・たつや氏 京都市立芸術大学講師。1964年、北海道生まれ。京都大学大学院博士課程中退。北海道大学を経て現職。専門は日本近世絵画史。論文に「『平安人物志』を読む」など。

 写真(右)=菊池契月「少女」

 写真(左)=横尾芳月「阿蘭陀土産」

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関西アートシーンの空洞化に逆らう
時評清水 穣さん

 外国からみて、日本の現代美術の中心はやはり東京であるが、東京に次ぐ都市はどこであろうか。名古屋である。福岡あるいは広島がそれに続くだろう。芸術大学をいくつも抱え美術館にも事欠かないのに、関西は現代美術のブラックホール。ハードだけあってソフトを欠く、およそ芸術に無知な行政の特徴でありそれが関西である。

 しかし砂漠の植物は強いと言うべきか優れた芸大をもつ地域の強みか、じつは関西は才能ある若手アーティストを輩出する地域でもある。いや輩出ではない、流出だ。行政は悪平等主義で玉石混淆(こんこう)のイヴェント会場(「美術館」「文化会館」「アートセンター」)の運営に忙しく、その指針は目先の採算と観客動員にのみおかれ国際的なアートシーンや美術史の中での意義を無視しているから、現場の学芸員は実力を発揮できない。コレクターの少ない貧鈍関西に現代美術画廊は数軒のみ。優秀な作家がいても大学を出たとたんに未来が見えない。かくして作家たちは活動の中心を(住所は関係ない)他の都市へ移す。人材流出である。

 「日本の〜」という枠の外で国際的に認められる日本発の日本人作家はつい15年くらい前まで存在せず、また差別的な欧米アート業界も偏ったスタイルしか受け入れなかった。「女子供」という蔑称(べっしょう)の通り、日本に宛(あてが)われた役割はまさしくアートシーンの「女」(普遍的な女性ではなく日本・アジアの女、情念の黒髪、アーモンド・アイ、女子高生などが主題の広義の「イノセント」アート)そして「子供」(アニメ、ゲームキャラ、オタク、フィギュアなど「スーパーフラット」な造形)であり、両者を拒絶すれば、欧米の亜流にしか見られない日本版モダニズムの隘路(あいろ)を辿(たど)るほかなかった。

 日本現代美術は、白くモダンな原理主義か女子供のサブカルチャーかという自虐的で硬直した二元論に引き裂かれていた。90年代後半に日本発で初めて国際的舞台に達した作家たち、例えば村上隆や奈良美智は、じつは不自由な二元論の最後の作家でもある。

 さて、古臭い二元論とは最初から無縁なポスト・ナラカミ(奈良・村上以後)の作家たちを推す展覧会が2つ開かれている。KPO(キリン・プラザ・大阪)は日本企業には珍しく現代美術の登竜門として機能してきたが、15年目を迎えて心機一転の展覧会を企画した。児玉画廊は関西唯一の国際的画廊であり、最先端を走る意欲的な若手作家展を次々と繰り出している。キリンの西尾康之、名和晃平、児玉の野原健司いずれの作家にも面白さと危うさが同居している。西尾の一見過剰なフェティッシュは宮崎駿の漫画版『ナウシカ』土鬼(トルク)の軍艦をなぞった工芸性にすぎないかもしれず、名和の有機・無機を横断するシリコンオイルの物質性から生まれる奇妙な存在感がなぜかミニマリズムの因襲に囚(とら)われ、野原の自由奔放なコラージュ・ドローイングは60年代和製ポップや80年代のコラージュに際どく接し「フリージャズのよう」。新人展の魅力は危うさの棘(とげ)である。サボテンに水をやらねば、彼らが東京へ流出しないうちに。

 写真(左)=しみず・みのる氏 1963年生まれ。同志社大学言語文化教育研究センター助教授。東京大学大学院博士課程中退。専門は現代芸術論(電子音楽、写真論)。主な著書に『白と黒で 写真と…』(現代思潮新社)など。

 写真(右)=野原健司「わくわく公衆便所」2004

 写真(左)=名和晃平「Pix|Cell Saturation2004」

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「イメージとしての大観」くっきり
時評小林 昌廣さん

 横山大観という、その名前自体が日本美術史上巨大なトピックとなっている人物から、どのような作品が想像されるだろうか。

 今回の展覧会は、そうした「イメージとしての大観」をくっきりと輪郭づけた企画であったといえるだろう。つまり、朦朧(もうろう)体という手法によって描かれた作品から、しばしばモチーフとされた霊峰富士山を描いた作品まで、大観の画業が展覧会場いっぱいに展開されていた。もちろん大作『生々流転』も展示されている。しかし、作品名としてではなく、大観の文字どおりの生々流転が、いくつもの作品からうかがえるのである。

 何人かの高校生を引率して出かけた時に感想を聞いてみると、『屈原』のような人物画が好きだという学生もいれば、『龍蛟躍四溟』のような非現実的な作品を好む学生もいる。一方で、まるでカレンダーの正月の図案のような、一連の富士山モノに退屈する学生もいた。

 彼らは、大観の生涯や手法とは関係なく、作品に描かれている世界に直接に反応している。中国の神話や故事などを題材にした作品を除けば、日本画の内面に物語性を導入したのは大観が最初なのかもしれない。しかも、大観個人の人生を超えて、日本ないし日本人が共通して抱くイメージを、たとえば富士山に託したのではないか。

 だが、そんな説明は高校生たちには不要だろう。作品から物語を読みこまないという、ある清々しさを逆に彼らに教えられたのだ。その見方で、たとえば『無我』をみる。今回は長野県の水野美術館所蔵の作品と東京国立博物館所蔵の作品が展示された。2枚の作品が同時に並ばないのは集客のためかどうかはわからないが、観客としては見比べてみたい作品だ。

 水野美術館のものは童子の表情があまりなく、顎から胸にかけての描写はどこか淡白だ。それに対して東京国立博物館のものは、距離の確定できない場所を見つめている眼と、半開きにされた口元が独特の表情を形づくっている。首すじに描かれた2本のしわは不自然だが、この童子はふくよかな体躯(く)をしているのだろう。

 あるいは2枚の『南溟の夜』はどうか。いつもは見慣れているはずの川や池が夜になるとどこか無気味に見えるように、墨画の方が波のざわめきはより不穏なものを感じる。しかし、画面左上に瞬く星の群れは、全体の色調を緑色にしている着色作品の方が天空の安寧をより思わせてくれる。2枚合わせてみると、大観は波の描写にもすぐれた画家であるという思いを強くした。

 大観の作品をみるとは、何も大観の人生に出会うことではないだろう。「イメージとしての大観」は、そのまま日本画に対する観客のイメージに重なるし、日本人の眼にする自然や歴史に結びつくだろう。その一方で、描かれた色や構図を直截なまなざしで見つめることも重要だ。その意味では、観客が試される展覧会であった。

 「近代日本画の巨匠−横山大観展」は8月8日まで京都国立近代美術館=岡崎公園内=で開催中。月曜休館。有料。

 写真(左)=こばやし・まさひろ氏 1959年生まれ。大阪大学大学院医学研究科博士課程修了。専門は舞踊美学、芸術社会学。著書に『病論の現在形』『臨床する芸術学』など。

 写真(右)=「南瞑の夜」(1944年)=東京国立近代美術館蔵

 写真(左)=「天地長久」(1940年)=名都美術館蔵

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ジャン・ヌーベル、重奏する奥行き
時評篠原 資明さん

 フランシス・ピカビアといえば、その生涯にいくつものスタイルの変遷をしるした画家として知られる。中でも、透明の時代と呼ばれる1920年代から30年代にかけての絵画には、ガラス絵を重ね合わせたような効果があって、異彩を放つ。どのようにしてピカビアは、その着想を得たのか。写真のネガを重ね合わせる多重プリントに、その源泉があるのではと、ぼくはかねがねにらんでいたが、最近では、やはり透明素材の影響ではと思うようになってきた。20世紀は、ガラスなどの透明素材が壁面をおおい始めた時代でもある。ショーウィンドーなども一般化してきた。透明の時代に先立って、ピカビアの盟友、マルセル・デュシャンは、2枚の大ガラスを用いた作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」に取り組んだほどだ。

 こうして周囲に氾濫(はんらん)し始める透明素材は、新しい視覚経験をもたらしたように思われる。たとえば、ガラスの表面に映るイメージと、その奥に透けて見えるイメージとの重なり合い。この移ろいやすい奥行きを、重奏する奥行きと呼びたい誘惑にかられる。美術においては、すでに2種類に奥行きが知られていた。いわゆる遠近法ないしは透視画法による奥行きと、色そのものがもつ奥行きである。前者は、透視する奥行き、後者は、起伏する奥行きと呼べるかもしれない。起伏する、というのは、色自体が、隣接する色次第で、盛り上がって見えることもあれば、へこんで見えることもあるからだ。

 昨年から今年にかけて、重奏する奥行きを、特に意識させられる機会が多かった。透明素材を用いた若い芸術家の作品の数々、国内を巡回中のダン・グレアム展のハーフ・ミラーを用いた作品、同じく巡回中のオノ・ヨーコ展のアクリルガラスを用いた作品、そしてきわめつきは、ジャン・ヌーベル展。

 ジャン・ヌーベルは、1945年生まれのフランスの建築家である。1987年、パリのアラブ世界研究所により、一躍、脚光をあびた。ガラスではさみこまれたイスラム模様が壁一面に配された建築だ。しばしば話題の展覧会が開かれるパリのカルティエ財団現代美術館も、やはり彼によるガラスの壁面の作品である。

 今回のヌーベル展には、建築家の展覧会にありがちなマケットのたぐいは出されていない。暗い中に、その作品映像が浮かび上がる展示がメインとなっている。作品には、構想だけのもの、計画進行中のものも含まれるが、とりわけ計画進行中のジュネーヴのリシュモン本社ビルにおける植物の映り込みの生かし方には、自然と人工との相互浸透が、めくるめくばかりに突き進められていく予感があった。

 透明素材による豊かな光のニュアンスと、イスラム模様のような文化の記憶の配合。ぼくの提唱してきた用語を用いるなら、感性過剰と痕跡過剰の取り合わせに、ヌーベルの真骨頂があるのだと、いまさらながらに納得させられた次第である。

「ジャン・ヌーベル展」は4月4日までサントリーミュージアム【天保山】=大阪市港区海岸通=で開催中。月休。有料。

 写真(左)=京都大学大学院 人間・環境学研究科教授 篠原 資明さん

 写真(右)=ジャン・ヌーベル展の会場から

 写真(左)=《カルティエ財団現代美術館》パリ(フランス)/1991−95(c)GeorgesFessy/CentrePompidou

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障壁画の展覧会の活況
時評田島 達也さん

 昨年の秋から今年のはじめにかけて、障壁画(襖(ふすま)絵)を中心とした展覧会が目立っている。しかもそれらは近年の障壁画研究においてホットな話題性を持つものばかりである。

 「円山応挙」展(大阪市立美術館、9/13〜10/26)では大乗寺の障壁画の再現展示が注目を集めた。障壁画は他の絵画と異なり、正面からだけではなく、室内の様々な位置から見られる絵である。大乗寺の山水の間などは、一つの部屋の中に上段と下段という高低差もあるため、視点の違いによる見え方の違いはさらに大きくなる。この展覧会の監修者である佐々木丞平氏と佐々木正子氏は、その著『円山応挙研究』のなかで、応挙はそのような視点の移動をしっかり計算した上で構図を作り出したという説を出された。魅力的な解釈だが、その推定の当否を検討するには、実際に部屋の中に入って自分で移動しながら見るしかなく、誰にでもできることではなかった。今回多くの人が自分の目と足でその見え方を確かめることができたのはよい機会だった。

 「大徳寺聚光院の襖絵」展(東京国立博物館、10/31〜12/14)で展示された「花鳥図」・「琴棋書画図」は、桃山時代の巨匠、狩野永徳のデビュー作とも言うべき作品として知られる。その荒々しく力強い筆遣いには確かに若さがあふれているように感じられる。ところが近年、その制作年代を永徳の中年期まで下げる説が出され、大きな問題となった。これが本当だとするとこれまでの永徳イメージが大きく変わる。展示解説では従来の説が採用され、表面上は何事もなかったように行われていたが、この問題は裏テーマとして、関心ある人の注目を集めた。

 「南禅寺」展(東京国立博物館、〜2/29、京都国立博物館、4/6〜5/16)では、円山応挙の襖絵が興味深い。これはもと南禅寺の塔頭にあったものだが、長らく行方不明とされていた。今回、東京国立博物館の収蔵品の中に含まれていることがわかり公開のはこびとなった。いまごろになってこんな大きな絵が「発見」される国立博物館というのもいかがなものかと思うが、貴重な作品が日の目を見ることは素直に喜びたい。

 さて、これから開催される障壁画展の目玉は、「二条城障壁画のすべて」展(京都市美術館、2/10〜3/14)である。二条城二の丸御殿の障壁画は、狩野探幽を中心とする狩野派の絵師たちによって描かれた。江戸初期の障壁画が当初の建物とともにこれほどたくさん遺っているのは希有(けう)のことである。二条城を管理する京都市は、30年前から作品保護のため障壁画を模写に置き換える事業を進めている。完成にはまだ時間がかかるが、もうすでにオリジナルと模写が置き換わっている部屋もある。

 この展覧会では主要な部屋の障壁画の展示に加えて、模写も展示され、比較して見ることができる。また模写の過程で明らかにされた新知見も公開されるという。なお、この展覧会開催期間中、美術史学の研究誌『國華』の二条城特集号が刊行される予定だが、その最新の研究には、絵の作者についてこれまでの定説を覆す内容が含まれるらしい。二条城はますます目が離せなない展開となりそうである。

 写真(左)=京都市立芸術大学 美術学部講師 田島 達也さん

 写真(右)=二条城二の丸御殿大広間四之間障壁画「松鷹図」

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