<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
小本小学校入学の日に母・フジと(1969年4月7日)

 岩泉高校ボクシング部創設者で、前岩泉町長・八重樫協二先生(1921年生まれ。拳聖・ピストン堀口さんの弟子で、プロで姿四郎のリングネームで活躍)は、「国宏は子どもの頃から舟で櫓を漕いでいたから、ボクシングのバランスや腕力は最高だ」と、おっしゃったそうだ。

 ボクシングとの出会いは、小学4年の時に、偶然見た、プロの世界タイトルマッチである。試合は1ラウンドのダウンをはねかえし、大逆転のノックアウト勝利。その人こそ、防衛の余韻に浸ることなく、約3週間後に交通事故死した永遠の世界チャンピオン・大場政夫さんである。大場さんの生い立ちにも憧れ、ボクサーになる夢を持ち続けた。

 中学ではバネと身長を伸ばそうと、バレーボール部に入ろうとしたが、部員不足で野球部に入部。小本中学は空手とテニスとバレーボールと剣道が強く、県大会の常連であった。テニスは同級生にスゴイ!友人がいたから絶対にかなわない。剣道は冬に素足で稽古するのと、素振りを何100回もするので、私には厳しすぎた。結局、野球部では、1年生の中でただ1人レギュラーになるが、成長期によくある膝の軟骨が出てしまう「オスグット病」に。手術して2週間入院したが、退院し右足を鍛えたら、今度は右膝にも軟骨が出た。

 なかなか、痛みが取れず、とうとう大好きな体育の授業にも出られなくなった。しかし、何故かラグビーの授業に出るのは楽しみだった。ラガーメン出身の佐々木道治先生のユーモアあふれるルール関係なしの授業だったからだ。

 膝は治らず、暗い中学生活だったが、また応援団活動も楽しみであった。応援団には、技術の先生で、金澤先輩の愛弟子・佐々木康人先生がいらしたからである。康人先生が率いる応援団は、中学裏の神社に行き「押忍(おす)、押忍」を連発。意味は良く分からなかったが、押忍がすごく気に入っていた。

 その康人先生とは、7年後に再会。ロス五輪壮行会が小本体育館で開催された時、先生が私の居る壇上にいきなり上がり「押忍!私の拓大の後輩、国宏クンが……押忍」。その時、初めて康人先生が拓大の先輩と分かり、涙が溢れ出てきた。まさに拓大校歌にある通り、「人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」を教えて下さった先生であった。

 高校進学では、親父や、おかんはもちろん、親戚も皆、家を継ぐようにと、ボクシングも強い宮古水産へと思ったらしいが、兄貴と同じ岩泉高校(旧農業高校)へ進学した。親父は怖い存在であったが、何も反対はしなかった。おシカばぁちゃん(大正元年生まれでまだ元気)は、何をするにも私の1番の理解者である。


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