<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
学校の文化祭でのボク。可愛いエプロンが似合ってるね

 翌月に行われるインターハイ予選に向けて、猛練習に明け暮れてる2年の先輩が、スパーリングパートナーが足りず、「おい、マネジャーの三浦、リングに上がれ」と言われて、恐る恐るリングへ上がった。スパーリングでは、鼻血が出ても余り痛くないし、ダウン寸前まで追い込まれたが、充実感でいっぱいだった。

 なんとか2ラウンドを持ちこたえ、リングを下りると、佐々木監督が「三浦、明日からバス通学を止めて、俺の教員住宅に来い」と、言ってくださった。5月の連休前だった。盛岡から単身赴任の監督と、卒業までの3年間、教員住宅でのマンツーマン合宿の始まりである。3年間で自炊も得意になってしまった。毎日、国体やインターハイチャンプになるのも当然のように練習に明け暮れた。

 まだ、デビューしていない私を、監督は『三浦は2年生で、国体とインターハイチャンピオンになる』と、決めつけていた。が、私は冗談で聞いていたが、『来月のインターハイ予選にモスキート級(45キロ以下)なら出してやる』と言われて、身長も167センチ、体重56キロだったが、1カ月でモスキート級に落としてしまい、監督やOBをびっくりさせた。

 が、それは、今でも思い出したくない減量だった。耳鳴りはするし、貧血でとてもリングに上がれる状態ではなかった。ただ、ボクサーになりたい一心だった。デビュー戦に勝ち、気になる向こうのブロックには、後にロス五輪に同行する瀬川先輩(フライ級・51キロ代表)がいた。ちなみに、私は五輪にはライト・ウエルター級(63・5キロ級)で出場。45キロのモスキート級から、最後は71キロのライト・ミドル級まで9階級で試合をしたことになる。

 とにかく、デビュー戦に勝ち、久しぶりに実家に帰ったら、おかんが、ガリガリに痩せた私を見て、「サッカー部に入ったのに、何でガリガリになるの?」と心配した。

 ボクシングをすると言えば、おかんと、おシカばぁちゃんが心配すると思い、実家には兄貴とサッカーをすると言っておいたからだ。なんとか理解してもらい、いよいよ本格的に、ボクシング三昧の日々を過ごすことになる。


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