<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
岩泉高校の道場で“バッチリ”ポーズ

 私が岩泉高校に入学した昭和53年の福島インターハイで、先輩が団体優勝するんです。メンバーと個人順位は、ライトフライ級3位の加藤隆密、バンタム級2位の野館喜久男、フェザー級2位の藤田和久、ライト級2位の佐々木久也、ライトウエルター級の武田喜彦の各先輩だった。藤田先輩の決勝の相手は、後にWBC世界ジュニアウエルター級チャンピオンになった浜田剛さん(当時、沖縄水産高校)だった。武田先輩は、後に浪速のロッキーといわれ、このインターハイチャンピオンになった赤井英和さん(現俳優)にきん差の判定で敗れた。私は、とても、こんなすごい大先輩の練習についていくことはできなかった。毎日、激しいスパーリングでしたね。日本一恵まれた環境の中で、メキメキ上達できたのは、後のボクシング人生で最大のプラスになった。

 2年生になると、身長も175センチぐらいに伸び、階級を2つ上のバンタムにしていた。約1年間、佐々木先生とマンツーマンだったから練習は、はっきり言ってすごい内容だった。

 滋賀インターハイの県予選は、5試合勝って代表になり、地元新聞の岩手日報にも出た。ボクシング会場の能登川町に入ると、『ヨシ、やったるで』っていうような自信に満ちていた。

 しかし、準々決勝で、チャンピオンになった宇佐美先輩と当たった。後に拓殖大学で一緒になるんだけど『こんなに手こずったのは三浦だけや』と言ってくれた。しかし、内容は完敗だった。

 あれだけ練習したんだから、頭の中では全国チャンピオンになっていた。それが負けて、ボクシングはセンスかな、と思い始めて、悔しいのと、もうやめようという気持ちが交錯した。それでも、宮崎国体までは頑張ったろか、と思い直して、練習だけは続け、なんとか団体優勝した。

 当時の国体は5人対抗で3人勝てばチームの勝利になった。ボク個人の試合としては、準決勝では岩手は勝負をかけて、1階級上げろって言われて、いい勝負はしたけど、その階級のチャンピオンに負けた。団体決勝はバンタムに落として勝ったんだけど、何か納得できなくて、もうボクシングやめようかと…。

 それでも、帰って、新人戦はフェザー級でチャンピオンになった。その頃、学校終わると、同級生が遊びに誘いにくるし、佐々木先生に『チャンピオンになれなかったからやめるわ』って話した。そしたら『いい』って言うから、『あれ?、止めないの。本当にいいの』って逆にとまどったんだけど、11月ごろからほとんど練習やめた。

 4月になって、新1年生部員も入って来て、こっちは『(練習に戻るように)呼んでくれるだろう』って思っているのに、佐々木監督は、全然呼び戻してくれない。


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