<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
拓殖大の卒業を前に友達連中と。右の列真ん中がボク

 関東大学リーグ4連覇の後、東西大学王座決定戦へ向けた正月合宿でチームの結束は一層固くなった。みんな『勝つのが当たり前』という気持ちになっていたし、その通り、王座についた。大学の4年間で、ボク自身はリーグと王座合わせて24戦無敗の記録をつくることができた。体育会のほかのクラブとも仲が良くて、励まし合ったし、全国に友達がいっぱいできていた。

 4年のリーグ戦の最中に(88年国体開催地の)京都府から試合を見にきてくれた先生がいて、声をかけてもらった。京都は、高校2年のときの修学旅行の場所だった。そのとき、ボクは宮崎国体に出るので参加できなかった。じつは、旅行と国体の出発日が同じで、京都までは先に修学旅行と一緒に行って、そこから国体選手団に合流したかった。新幹線の中だけでも同級生たちと…と思ったのに、試合前の減量とかもあって、ダメだって言われた悔しい思い出があった。

 京都には、職員採用試験で初めて来た。国体を控えていたので、いろいろな競技の選手が受けていた。ボクシングで考えると、正直、弱い所に来たなっていうのが、第一印象だった。京都で知っている選手は釘田(同志社大、現タレント・和泉修)ぐらいだった。

 府体育協会事務局に勤めて、京都のアマチュアボクシング連盟理事長だった田野先生の家に下宿させてもらった。練習は龍谷大で始めた。主将の吉田君は鳥取国体でKO勝ちしたことがあったが、1年生の部員たちは、まだボクのことを知らなかったのだろう。

 シャドーボクシングを始めたら、彼らが『オー、なかなかやるやんけ』って。こっちはとりあえず『ありがとう』とは言うんだけど、ボクのことは知ってるはずだし、冗談だろうと思った。すぐに7、8人集まってきて『こいつ、巧いで』とか話している。その内、吉田が来て『この人が三浦さんや』。こんな出会いだったから、かえってみんなと打ち解けて練習できた。

 いつもレギュラークラス5人ぐらいと相手したが、悪いけどボクの練習としては十分な内容ではなかった。しかし、龍谷大は拓殖大方式の練習を受け入れ、メキメキ強くなっていった。ボクも教える楽しみを感じていた。龍谷大は、近畿リーグの常勝校になった。


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