<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
プレジデントカップの準決勝でソウル五輪銀メダリストのグラハニ(左)に惜敗した

 ソウル五輪と京都国体の年は、2月のプレジデント・カップでスタートした。ウエルター級で、トルコのチャンピオンに勝てて、自信になった。プレ五輪は、ナイジェリアのチャンピオンに勝って、頑張ればもっとできるなっていう気持ちになれた。

 2月、3月と試合が続いたが、試合がやりたかったので、しんどいとは感じなかった。4月は、ハワイでフィピンのチャンピオンなんかに勝ち、いい調整の試合ができた。

 5月は、故郷の岩手で全日本選手権が開催された。普通は、翌年の国体リハーサル大会になるため、北海道のはずだったが、何かの都合で岩手になったらしい。僕にとってはラッキーだった。小さい頃からお世話になった人など、本当に大勢の方が応援にきてくれた。試合の前から、内心、感動していた。いつも、無関心な親父が試合に来たのにもびっくりした。おかんは、相変わらず体を気遣い、大好きな山菜、ウド、しとげ、わらび、たらの芽や、海の幸を細かく分け、持ってきてくれた。

 5試合をノックアウトで決めた。この後のソウル五輪を含めて、この時期が最も強かっただろうと、思っている。

 ソウル五輪が近づいたが、ボクシングで2大会連続出場は、過去に1人しかいなかった。僕もロス五輪の後は、4年後は体力が落ちているだろうし、次々に強い選手が出てくるだろう、と思っていた。しかし、前年の京都府井手町での全日本選手権(翌年の京都国体リハーサル)で圧勝したとき、すでに2度目の五輪は視野に入っていた。

 周囲は何故か『三浦はもう引退』と、うわさし始めていた。年齢的なことから自然に出てきたのだろう。ボクサーは『倒されグセ』が出てきたら終わり、言われる。僕は首が細くてボクサー向きじゃないんだけど、ボディーを打たれたら、フッと息をはくとか、パンチをもらったら(体が)しなるとか、ダメージを少なくする方法を体で覚えていた。それでも打たれたら、変に我慢せず、ダウンするようにした。意識のしっかりしたダウンは、1種の休息時間と考えていた。


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