<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
京都国体の民泊。右端がボク

 ソウル五輪から帰ると、すぐに国体だった。キャプテンだし、京都国体のために京都へ来た、という気持ちがあったから、緊張した。アマチュアの計量は1回(体重計に)乗ったら終わりだし、まさか減量に失敗するわけにもいかないし…。とにかく、ボクシング会場の井手町は盛り上がっていた。

 ボクだけ勝ったんではいけないし、みんなが頑張れるように、指導的な立場になった。当時は、まだ南京都高校ボクシング部は弱いって見られていたが、結果はみんな120%以上のすごい力を出した。団体の得点争いでも大勝だった。

 試合は、成年と少年のリングが並んでいた。ボクは、ダウンを取って、 ニュートラルコーナーで待機しているときに、隣のリングの少年選手が気になるもんだから、ちょっと見たりしていた。すごく強い相手に勝っているような場面もあって、思わず『よくやった!』というような仕草で、Vサインを送ったりしていた。

 決勝の相手は、南京都高校から自衛隊体育学校に行った桑田だった。この時は、埼玉代表で出ていたが、大変な努力家だった。後にプロになって日本チャンピオンを10回防衛した。3ラウンドにアゴにもらって、ダウンを取られたが、内心は余裕だった。結果は5−0で勝った。

 民泊で歓迎してもらったのも大きな力になった。その上、京都に来て、2年ぐらい経っていたから、応援してくれる人も増えていて『スター』にしてもらっていた。

 国体の開会式は、この日に試合前の計量があるから普通は出ないんだけど、京都国体では参加した。そしたら『コラー、ミウラ』っていう声が聞こえた。何か懐かしい響きだと思ったら、母校の岩泉高校の元校長だった高橋先生で、岩手県選手団の団長だった。高校3年のときに、大学進学を勧めてくれた先生だった。

 国体が終わったら、またすぐに別の県に移るジプシー選手っていうのも過去にはよくあったが、京都では体育協会にそのままいた。26歳になって、周囲は、もう三浦は選手としては終わりだ、とまた言い始めていた。『灰になるまで』という言葉があるけど、まだ灰にはなっていないし、体力も伸びていた。

 酒もバンバン飲むようになって、まあ、面白いんだけど、朝になるとまた、自然に走っていた。


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