<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
京都国体のころ、勤めていた府体育協会の仲間とクリスマスを楽しむ。中央がボク

 京都国体が終わって、また「三浦は引退」というのが、ボクシングの雑誌なんかでも出てきた。ボク自身も、1週間毎日が飲み会というようなこともあって、練習もしないでこんな生活をするのは初めてだった。体調もおかしくなったりで「練習したいな」と思った。

 全日本社会人は、迷ったけど自分でエントリーしておいた。2試合とも1ラウンドで倒した。年間の最優秀選手にも初めて選ばれた。ところが、次の年(99年)2月のプレジデントカップ(インドネシア)の代表を外されてしまった。ものすごい大きなショックで、連盟がオレを引退させようとしているのか、とも思うほどだった。

 ところが、中国で天安門事件があり、北京で行われるアジア選手権の日程が7月に変わった。学生はリーグ戦と重なったので、社会人が出ることになったらしい。それで『三浦が行け』となった。練習はずっとしていた。大会では、中国の選手に勝って、シリアのチャンピオンに負けたが、いい手応えをつかめた。

 これで、世界選手権に出られると思ったら、これはほかの選手が出ることになった。何かイライラしながら北海道国体に行った。国体はチャンピオンクラスはあまり出ないけど、とにかく優勝した。続く全日本社会人は、2試合勝って優勝すると、『三浦は復活か』と言われるようになった。

 この年最後の全日本選手権(11月)は、日本連盟推薦じゃなくて、京都府代表で出た。ウエルター級から元のライトウエルター級に落として、5試合勝って優勝。これで、また日連に認められたようだった。

 この全日本では、200試合出場の記録をつくった。この時期は、ボクサーとして地道に過ごしたと思っている。いろいろあったけど、鈴木監督は『勝ってれば必ず(大きな大会に)出られる』と言ってくれてたし、全日本では5試合すべて倒して勝ったからアピールできた。衰えなんてまだ感じないし、いきなりガクッてくるのかな、なんて考えたりした。

 結局、出られない大会があったのも、かえって、ボクサーとしてうまく休養が取れた、ということだろう。


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