<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
フェアプレー賞を受けるボク(左端)

 鈴木監督から『勝っていれば、チャンスはある』と言われていた通り、90年になって、2月のプレジデントカップには再び代表に選ばれ、ウエルターで出た。レベルアップした中国の選手には勝った。ロシアのチャンピオンに判定で負けたが、いつもより1階級上のウエルターでも出来る、という自信にはなった。

 日本に帰ると、(過去に例のない200試合以上の戦歴に対して)5月に日本ユネスコ協会から「フェアプレー賞」をもらえることになった。こんなに多くの試合をしたのか、と自分でも思ったが、(地味なスポーツと見られている)アマチュアボクサーでもこうして認められる、と証明できてうれしかった。他の選手の見本になるかもしれないし、ボク自身も胸を張ってボクサーとしてのプライドを持ってやっていきたい、と感じていた。

 当時、60や70戦のチャンピオンはいたが、強い選手は大事に育てられるから、かえって試合数は少なくなる。ボクの場合は、何でもいいから出ろって言われて。国体でも何でも、試合が目の前に来たら出ていた。丈夫だったともいえる。

 まあ、ボクの試合数、出場階級「9」は破られないでしょうね。ただ、『数より中身だよっ』て言われたら、しょうもないかもしれないが、「ボクシングが好きだったら、これだけやってみなさい」っていう気持ちは今でもある。

 フェアプレー賞の授賞式では、大相撲の横綱・千代の富士さんや柔道の小川直也くんたちと一緒だったけど、故郷の岩手からはテレビ局も2局取材にきてくれた。大会に出ると、まあ、簡単に勝てる試合もあるんだけど、1試合1試合の重みみたいなものも出てきた。もっとも、自分としては、何試合出たとか、何連勝した、ということはまったく気にしていなかった。ただ、これがきっかけで、ほかのいろいろな賞をもらえたり、岩手に帰っても話題にしてくれた。取り上げてくれたマスコミの力を感じたりもしていた。

 練習もしっかりやっていた。後輩にしてみたら、何とか三浦に(パンチを)当てようとしてやってくるし、自分は体調が悪くても、ちゃんと相手しなくてはいけなかった。

 金沢での全日本選手権は、実は風邪をひいてしまっていた。ヨタヨタしながら決勝に進むと、早稲田大学の関という選手と対戦した。『三浦を倒す』と、階級も合わせてきて、ボクのことを本当によく研究していた。早い動きで、こっちは落ちついているようで落ちついてなくて、1ラウンドは遊ばれた。2ラウンドで、たまたま打ち合ってくれて、左フック一発で倒した。

 この時の監督は、京都の本山さんで、風邪のボクを夜通しで看病してくれていた。


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