<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
プレジデントカップの日本選手団(後列右から4人目がボク)

 全日本社会人では、大会前にヨネクラジムでスパーリングをした。効いてはいなかったが、ボディーにもらって、せきをしてもなんだか痛い。病院でみてもらっても、ジムの米倉会長は『大丈夫や』って。しかも、計量の朝、なんと体重が700グラムオーバーだった。近くのサウナはやってなくて、走ろうにもワキ腹が痛い。

 とにかく、池袋のサウナに行って、営業は終わったばかりだけど、使わせてくれた。試合会場に戻る電車の中でも、汗がどっと出てきて、きっと乗客の人は『なんだ、この人は』と思ったでしょうね。やっと、計量にパスして3試合とも倒して優勝した。

 職場に戻っても、ワキ腹が痛くて。京大病院の先生に診てもらったら『あんた、元気いいね。(骨が)折れてるよ』って。米倉会長は、後になって、『大丈夫だったか。実は、あのとき折れてたんだけど…』と話していた。社会人の試合前だったので、ボクに言わずにおこうと、配慮してくれたんだろう。こんなときも、(拓殖大の)鈴木監督は、三浦は骨が折れようとどうしようと勝つんだ、とか相変わらず周囲に言っていた。

 年か明けて、関西スポーツ賞をもらった。この時は、野茂投手も一緒だった。プレジデントカップは、準決勝でフィリピンのチャベスとダウンの取り合いをして勝ったが、決勝で負けてしまった。しかし、この年は良い感触でスタートした。

 中国国際では、韓国の若い選手がバケツでキムチを運んできてくれた。どうも、ボクを良く知っている韓国選手に『三浦に持っていけ』と言われたらしい。アジアの中でもベテランになっていたボクに気をつかってくれたのかもしれない。そんなことがあった後、準決勝で韓国の選手に勝った。韓国の選手との対戦は9人目だったが、初めての勝利だった。結局、この国際大会で初の金メダルをとり、表彰式ではカップではなくて、「1等賞」と書いた壺をもらった。

 続くアジア招待選手権では、もうアジアの大会は場馴れしてるって感じで臨んだ。あくまでもファイターで通したが、コンビネーションもようやく普通のレベルになってきた。というのは、ボクは上なら上、下なら下という具合に、とにかく『打って倒す』ことにこだわった。ようするに(テクニックという面では)下手だったということですね。ただ『ボクシングを本気でやって』勝ってきた。

 通算200勝は、いまではすごい財産だけど、当時は何も思っていなかった。


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