<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
岩手・盛岡での全日本社会人大会会場で関係者と(中列右から2人目がボク)

 世界選手権では、キューバの選手の驚異的なスタミナ、精神力を見て勉強になった。帰ってすぐに、バルセロナ五輪の選考会だった。その前に大分で合宿があり、前人未踏の五輪3回出場がかかっていることもあって、気合が入った。地元に岩手出身の袋岩(ほろいわ)先生がいて『オレは、三浦みたいな選手をつくるのが夢や』っていって、本当に良くしてもらった。

 試合会場の広島に入って、最後の調整をしようとした。ちょうど、グローブが紐(ひも)結びから、マジックテープでとめるようになったときだった。スパーリングは軽くやるつもりだった。しかし、ボクシングを甘くみたらいけない、と思い知らされた。マジックテープが左目をかすめて、出血した。病院で、早く治るようにと、麻酔をせずに何針か縫った。

 次の日、選考試合前にドクタートップがかかった。この瞬間、バルセロナ五輪は断念、ということだった。ショックだったが、逆によかったという気持ちもあった。この年は、海外も含めて、試合が連続していたし、大分での調整合宿も最高にうまくいった。自分自身、精神的にどっかにスキがあったから目が切れた、と今でもそう信じている。

 ほかの人は『アホなことして』って、言っていた。試合を見にきていた妹も、眼帯のボクを見て泣いていた。しかし、ボクは『これで終わった。体力的にも…』と、けじめをつけていた。3度目の五輪に出られなかったことより、周囲の驚きそのものが、ボクにはショックだった。

 それでも、ボクの目的は、五輪どうこうでなくて、ボクシングをすることだったので、京都のプロのボクシングジムで練習は続けた。その帰りに、交通事故にあって、肋骨や左足を折った。歩けるようになって、岩手の病院に移って療養した。

 自然に三浦は引退、となっていた。この年、岩手で全日本社会人選手権があることは、事故の前から知っていた。アマチュアなんだから、勝っても、負けてもいい、と考えてエントリーした。すでに、シードもなかったが、3試合勝って、まあ、故郷に錦を飾った。

 山形国体がすぐに控えていたので、仙台で佐藤仁徳という日本チャンプと練習した。昔は軽くあしらえる相手だったのに、左足をかばって、スパーリングにならなかった。どうも、おかしいと思って、鈴木監督に相談した。『三浦がおかしい』という情報はすでに、耳に届いていたようだった。


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