<不世出のアマボクサー・三浦国宏の半生記> 
最後のファイトとなった京都での全日本社会人選手権(左がボク)

 山形国体を直前に引退して、次の年の93年から京都外国語大学の監督を引き受けた。拓殖大学では、高校時代の実績のある選手が集まるが、外大ではそんなことはなくて、まったく別の世界だった。それでも、教えるのは好きだし、楽しんだ。その内、レフェリーもするようになって『こんなに大変なのか』と、勉強にもなった。

 94年の12月に盲腸にかかってこじらせた。その時、次の年の12月に京都で全日本社会人選手権があることを知った。出たいなーという気持ちと、京都で誰が出るんだろう、という思いがつのった。

 初めてですね、鈴木監督に反発したのは。選手権に無断で出ることにした。その前に、10月の京都府選手権に出ないといけなくなった。小さな試合なので、これまで出たことはなかった。昔の体ではなくなっていて、減量がきついのにウエルター級だった。(試合が近づいて)『誰がウエルターに決めた』と怒っていたら(大会へのエントリー用紙は)誰でもない自分の字だった。無難に2勝した。

 全日本社会人の前に自衛隊体育学校でスパーリングしたいとお願いしたら、受けてもらえなくて、拓殖大で当時の全日本チャンピオン2人とやった。そしたら、鈴木監督がすぐに『三浦、OK、OK。これぐらいやれたらOK』って。実は、この後輩2人についていけなかったけど、監督は『これほど(コンディションが)戻っているとは思わなかった。勝てる!』と言ってくれた。

 あんまり軽く言うもんだから、監督はボクを見捨てたのかな、とも思った。しかし、しっかり見てますね。社会人は3試合とも倒して勝った。龍谷大学の小さな体育館なのに、それなりに盛り上がった。

 33歳になっていた。アマチュアは35歳までしか試合ができない規則になっている。246戦で遂に終わった。試合をやり過ぎたとは思わないが、もっと海外に行ってみたかったとか、いくつかの思いは残った。


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