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「南洋」の絵はがき 無名日本人の足跡、今に

報道部 峰政博
青木教授(右)を訪ね、江畑弥吉に関連する資料から絵はがき作製の業績を聞く江畑の孫の高見教授=愛知県春日井市・中部大
青木教授(右)を訪ね、江畑弥吉に関連する資料から絵はがき作製の業績を聞く江畑の孫の高見教授=愛知県春日井市・中部大

 戦前に「南洋」と呼ばれた東南アジアへ果敢に飛び出し、成功を夢見た多くの日本人たちがいた。19世紀末から20世紀初頭に国の出先機関は少なく、ほとんどは大企業の後ろ盾がなく、現地でも日本でも忘れられている「無名」の人々だ。

 「戦前の東南アジアにいた日本人と聞けば軍人をイメージするかもしれないが、日本軍が進出するずっと前から一般市民の活動はあった」と中部大(愛知県春日井市)の青木澄夫教授(65)は話す。

 だが、具体的に東南アジアで日本人がどのような活動をしてきたかを裏付ける資料は多くない。青木教授は日本人が写真館などを経営して発行した写真絵はがきを切り口に、足跡を研究している。

 その中の1人に、10代で弟とシャム(現タイ)に渡った現在の彦根市出身の江畑弥吉(1887〜1952年)がいた。残した数々の写真絵はがきは、時を経て、タイの写真史を彩る。「『南洋』刻む 邦人写真」の見出しで、5月22日付の朝刊で報じた。

 江畑は日本式水田の開拓を目指し、いったんは成功するがチャオプラヤ川の氾濫で挫折した。弟の帰国後もとどまり、貿易商店「江畑洋行」や写真館の経営にも力を入れた。写真館の一つは現地で結婚したプロムさん(1914年に死別)にちなんで、「プロム写真館」と名付けた。

 江畑洋行はタイとシンガポールを拠点にアジア7カ所の支店などを設け、巨額の富を得た。遺族によると、当時の江畑は、日本占領下のシンガポールで1943年に樹立されたチャンドラ・ボースの自由インド仮政府を支援していたという。現地で生まれた長男もインド独立に深く関わった。

 太平洋戦争後、江畑は連合国側に拘束される。築いた財産は没収され、2年ほどの収容所生活を経て帰国した。長男は拘束を逃れて潜伏し、引き揚げ船に紛れ込んで無事に帰国したという。

 江畑と日本人の妻との間に生まれた弥寿子さん(故人)の長男で、孫の京都大教育学研究科長・教育学部長の高見茂教授(64)は「おじ(江畑の長男)が江畑洋行は崩壊したが、インド独立に貢献できた、と語っていたのが印象深い」と振り返る。

 「祖父は『タイから得たものを返しただけ』と考えていたようだ。アメリカで再起を図るつもりだったと母に聞いている」と高見教授。その思いはかなわず、65歳で亡くなった。

 江畑らの写真絵はがきには、東南アジア各国の今では変貌した街並みや風景、失われた民族の伝統が写っている。現地ではこれらを日本人が撮影、作製したことは知られていないという。しかし、一部は博物館や写真集などで歴史資料として扱われている。「無名」の人々の歩みは今に生きている。

[京都新聞 2016年5月25日掲載]

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