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滋賀の沖縄戦没者 岐路に立つ史実の継承

滋賀本社 沢田亮英
沖縄戦などで戦死した滋賀出身者の慰霊碑「近江の塔」。毎年6月、滋賀県遺族会による追悼式が行われている(5日、沖縄県糸満市)=県遺族会提供
沖縄戦などで戦死した滋賀出身者の慰霊碑「近江の塔」。毎年6月、滋賀県遺族会による追悼式が行われている(5日、沖縄県糸満市)=県遺族会提供

 沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園に、各府県の慰霊碑と並んで「近江の塔」が立つ。第2次大戦中、沖縄や南方の海で戦死した滋賀出身者1691人の名を刻み、滋賀県遺族会が毎年、現地で追悼式を営んでいる。時間も距離も遠く離れた出来事として風化させず、次世代に史実をどう伝えるか。遺族たちの心は揺れ動いている。

 近江の塔は1964年に建立され、91年に建て替えられた。維持管理費などに充てる費用として県が約66万円を負担し、地元の財団に清掃を委託している。毎年6月の追悼式と戦跡巡拝には50人前後の遺族らが参加している。

 「1年間、家の中で起こったことを報告する。みんな元気や、と」。長浜市の那須康也さん(75)は県遺族会の沖縄委員長を務め、長年、沖縄訪問に携わって近江の塔の前で手を合わせてきた。

 父が戦死したのは自身が4歳のころ。自宅に役場の職員らしき人が来て、母と祖母が急に泣きだしたのを覚えている。「船上で玉砕したようだが、遺骨もない」。約40年前から沖縄での追悼式に参加するようになり、母とも訪れた。孫にも伝えようと、趣味のジョギングで一緒に墓の近くを走って話したりもした。

 一方、地元の遺族会では毎年8月15日に追悼の式典を開いて沖縄訪問についても報告するが、会員そのものが減少している。「忘れてはならんという意地がある。せめて戦後100年は慰霊の行事を続けてほしい」と願う。

 「お父さん。また来ました」。近江八幡市の村北勝子さん(71)は昨年6月の追悼式で、遺族を代表して戦没者に語りかける「呼び掛け」を担当した。生まれて4カ月後、出会えないまま亡くなった父をしのびながら、「今は毎日、かわいい孫の顔を見ながら幸せに暮らしています」と報告した。自らも長年かけて戦争と向き合えるようになっただけに、「孫たちに押しつけるのではなく、戦争の悲惨さが分かるようになったら伝えたい」と考えている。

 次世代に史実を伝えようと、県遺族会は毎年3月、主に中高生を対象に沖縄訪問を実施してきた。遺族会員が引率し、沖縄戦で住民らが避難したガマを見学して語り部の話を聞いてきたが、昨年で打ち切りとなった。修学旅行で沖縄を訪問する学校が増えて人が集まりにくくなったことや、引率者の高齢化が原因という。

 今年の近江の塔での追悼式は今月5日にあった。県遺族会の岸田孝一会長(74)は、戦没者の孫世代の参加者に声を掛け、来年は「呼び掛け」を担ってくれるよう依頼した。昨年発足した県遺族会青年部も活動の方向性を探り始めている。「私たちの思いを孫にもひ孫世代にも伝えないと人生は終われない」。決意を新たにして終戦71年目の夏を迎えようとしている。

[京都新聞 2016年6月15日掲載]

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