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原爆取材に携わって 被爆者の声、届け続ける

報道部 峰政博
原爆ドームには多くの外国人観光客らが訪れていた=昨年8月3日、広島市
原爆ドームには多くの外国人観光客らが訪れていた=昨年8月3日、広島市

  昨夏、原爆の取材に携わった。今は京都に住んでいる被爆した人たちの体験を聞き、広島市を訪れてそれぞれの思いと歩みをたどった。最愛の人を失い、身体をむしばまれ、偏見に苦しんだ被爆者たち。戦後70年を超えて高齢化が進む中、一人でも多くの声を拾い上げて語り継いでいく新聞の使命を再認識した。

 京田辺市の住田紀美子さん(77)は、5歳の時に広島市の爆心地から約2・4キロの場所にある公園で被爆した。

 しばらくして、原爆の影響で髪の毛がバサバサと抜けるようになった。療養先だった母親の実家では「変な病気じゃないかと思われ、牛小屋の2階に隔離された」。その後も下痢や発熱、倦怠(けんたい)感などが繰り返し起きた。いら立ちは募り、「お母さんどうして生んだの、と八つ当たりしたこともあった」と振り返る。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)の思い出を語るとき、少し語気が強まった。ABCCは戦後の1947年にアメリカが設置し、原爆の放射線が健康に与える長期的な影響を調べた。

 小学校に入り、住田さんは定期的にジープ型の車などで学校に来るABCCのアメリカ人らに連れて行かれるようになった。研究所のようなところで、白衣を来た外国人らに囲まれ、採血やエックス線検査を受けた。

 学校を卒業しても、就職した会社にまで来た。「被爆してどんなんなっとるんか、アメリカさんだって分からんから。治療をしてくれるわけでもないし、研究材料みたいだった」と不信感は消えない。

 「調査すれども治療せず」と被爆者からの非難はずっと上がっていた。ABCCの当初の目的は核戦争への備えだったとみられ、被爆者のための研究ではない時期があったことは容易に想像できる。

 ABCCが改組して75年に日米共同の研究機関になった広島市の「放射線影響研究所」で、住田さんの思いを伝えた。亡くなった被爆者の家族に対して解剖するために遺体の提供を求めるなど、強引なやり方があったという。

 担当者は「研究優先だった。被爆者や遺族の方に配慮した方法もあったのではと思う」と話していた。設立70周年を迎えた昨年6月の記念式典では、丹羽太貫(おおつら)理事長が「大変重く受け止め、心苦しく残念に思っている」と反省の弁を述べている。

 広島では住田さんが被爆した公園などを巡った。街のさまざまな場所に慰霊の碑が建っていた。途中で立ち寄った原爆ドームでは、熱心に解説を読む外国人観光客の姿が印象に残った。

 北朝鮮の核開発が進むなど核兵器が人類に与える脅威がなくなる兆しはない。二度と同じ過ちを繰り返さないために何ができるだろうか。長崎市で生まれた新聞記者として、これからも被爆者の声を届けていきたい。

[京都新聞 2018年1月24日掲載]

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