メニュー
 京都新聞は、観光都市京都のパワーアップを目指して企画「観光・京都おもしろ宣言」をスタートさせました。人々の価値観はいま、物の豊かさから心の豊かさに移りつつあります。京のまちは伝統、歴史、自然環境と、どこを取っても格別な魅力をたたえてきました。京都新聞はそうした魅力に光を当て、京都を元気にする紙面を多彩に展開するとともに、フォーラムやイベントの開催、伝統文化体験の案内など、さまざまな「おもしろ」企画を発信していきます。

京都検定現地講習会

第4回 幕末維新 霊山歴史館学芸課長・木村幸比古さん

 19世紀初めから半ばの天保から安政年間にかけて、南下政策をとるロシアや極東政策でアジアをうかがう英仏に続き、米国からはペリーが来航しました。まるで列強に包囲されたかのような日本の状況に危機感を覚えた人々、いわゆる先覚者たちが江戸へ出て行動を起こさんとします。坂本龍馬もそうした1人でした。

 そんな中、幕府は威信を保とうと懸命で、朝廷の力を借りるもやむなしと考えていました。しかし、時の大老井伊直弼は、天皇の勅許(ちょっきょ)なしで日米修好通商条約を調印し、また朝廷の意向を無視して紀州藩主徳川慶福(後の14代将軍家茂)を後継に決定するなど強硬な政治を行っており、朝廷と幕府の関係はよくありません。ところが直弼が暗殺され、親幕派の孝明天皇は、妹の和宮を家茂に嫁がせることを認めます。これが公武合体論です。公家(朝廷)の伝統的権威と、武家(幕府)を結びつけて幕府の再構築をはかろうとした政策論のことです。孝明天皇はあくまで鎖国を保とうとしたので、和宮の降嫁(こうか)の代わりに幕府に攘夷(じょうい)(外国人を実力行使で排斥すること)を宣言させました。

 脱藩して禄(ろく)を捨てた浪人、また武士ばかりでなく農民や商人も含め、志を持って続々と江戸に集まった彼らを「浪士」と呼びましたが、その数は増え続けます。文久年間(1861−63)の京都市中は、これまた攘夷思想を唱える過激派浪士たちが横行し、「天誅(てんちゅう)」と称したテロ行為が後を絶たない状態でした。そこで幕府は、江戸における浪士たちを京都の治安維持に利用しようと考え、「浪士組」を募集しました。浪士たちを組織化して京都に送り込み、不逞(ふてい)浪士の取り締まりと、上洛予定のあった14代将軍家茂の警護にあたらせようとしたのです。

 もともとこの募集案は庄内(山形県)浪士の清河八郎が提案したものとされています。「高い志を持つ者ならば…犯罪者も罪を免除する」などとしたので、獄舎の経費削減も図れると採用され、関東一円に広く浪士募集が行われました。近藤勇率いる試衛館の面々もこのとき応募し、浪士組として上洛したのでした。

ファンの墓参が絶えない坂本龍馬の墓(京都市東山区)

 しかし、清河八郎は強い尊皇(そんのう)攘夷思想の持ち主で、京に着くやいなや「真の目的は尊皇攘夷の先鋒(せんぽう)たらんとするにある」と演説。浪士組の数を利用して全員の血判をとり、朝廷に建白書を出したのです。清河は、結果、攘夷実行の朝命を受けることに成功、横浜付近で攘夷を果たすため出発しようとしました。

 これに異を唱え、京に残留したのが芹沢鴨ら5人と近藤勇ら8人。のちの新選組です。京都の町衆と一緒に天皇をお守りしようと考えた近藤勇や芹沢鴨率いる残留浪士たちは壬生に居留し、京の治安維持のために働きたいと、当時京都守護職に就いていた会津藩の松平容保に願い出たところ、「守護職御預」の身分が与えられ、「壬生浪士組」が発足しました。

 「新選組」の名は、会津藩に武勇伝を残す藩士の組の名にあったものだそうです。孝明天皇が「8月18日の政変」(1863年)で御所の守備に働いた壬生浪士たちに何か隊名をといわれ、松平容保が「新選組」を提案しました。いわば天皇からいただいた名前ですから、近藤も土方も新選組の名は最後まで死守しようとしました。

 有名な池田屋事件(1864年)で新選組が名を挙げた2年後の慶応2(1866)年、薩長同盟が結ばれますが、これを斡旋(あっせん)したのが坂本龍馬。しかし、彼の最大の功績は今でいう規制緩和を促したことでしょう。幕府の許可が下りるのに何年もかかる物産貿易を、薩摩藩の援助でどんどん行いました。経済は国を越えます。彼は海援隊を世界に広げようとしていました。薩長が手を組めば新しい国家体制を築けると思っていたのです。

 同じ年に将軍家茂が逝去、後見職にあった一橋慶喜が将軍となります。敵前逃亡を図ったとかよくないこともいわれる慶喜ですが、江戸幕府を終わらせたという功績は大きい。有栖川宮吉子を母に持つ彼は、天皇家の血を引く者として、大政奉還を自身で行いたかったのでしょう。

<京都検定クイズ>
(1)「公武合体論」とはどんな政策でしたか。
(2)脱藩して禄を捨てた浪人や農民、商人をどう呼びましたか。
(3)坂本龍馬の功績を2つ挙げなさい。
答えは講演抄録の中にあります。

[京都新聞 2006年10月3日掲載]