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町衆の「見え」気質示す祇園祭

祭りを支えたライバル意識

写真家・西山治朗さん

「戦乱、火災で廃れても何年か後に復興する。そのバイタリティーが町衆の心意気といわれるのでは」と話す西山さん(京都新聞社)

 <40年以上に渡り祇園祭を撮り続け、近ごろ著書「写真で見る祇園祭のすべて」を刊行した写真家西山治朗さん(74)は、日本三大祭りに数えられる祭りの盛り上がりや「動く美術館」と称される山鉾の豪華さを生んだのは、「見えっ張り」という京都町衆の気質とみる。「山鉾の懸装品の一つ一つが京都の人と歴史の象徴。ぜひその目でみて思いをはせて」と呼びかける。>

 祇園祭のハイライト、山鉾巡行では、ベルギー製のタペストリーやペルシャじゅうたん、現在の美術家の作品など古今東西の芸術をもとにした前掛けや見送りが目をひきます。また、見えない場所に使われる彫金や飾り彫刻など工芸装飾も非常に精巧でぜいたく。鯉山を飾る木彫りのコイは左甚五郎作と伝えられる。月鉾の屋根裏の草花図は円山応挙作。歴史に名を残した人物の作品も多数あります。

 この「動く美術館」と言われる山鉾の豪華絢爛(けんらん)ぶりは、町衆の自信と誇りの表れでしょう。力の誇示、自慢と言っていいかもしれない。

 さらに言うと「見え」。京都の町衆の非常に見えっ張りな姿も見えてくる。「よその町内がこんなんした。なら、わたしとこはこんなんしよう」。そういう競争心は間違いなくあったはずで、今も各山鉾の町内を訪ねると「わしのところの山はええ」「これはわしのところしか持ってへん」とおっしゃいます。

 外に対してもそうです。町衆は主に商人だから商売敵の堺や長浜の商人に負けたくなかった。「京都にはこういう素晴らしいものがある、まねできんやろ」。そういう遠近のライバルに向けた思いが、もとは剣鉾だった山鉾がどんどん大きくなり、災禍や大火の後も復活し、何百年も祭りを続かせる原動力になったのだと思う。見えは大切なんです。

 見えを張るだけの力もありました。江戸時代の町内の約束事を記した文書「町式目」に「侍を住まわすことべからず」という文句がある。士農工商の身分制度があった時代なのに、平気で書いていたんです。またタペストリーが入ってきたのは鎖国時代ですが、鉾の飾り金具にある星座や北斗七星からは、当時の町衆が海外との交易を夢見ていたこともうかがえる。

 <祇園祭は山鉾巡行だけでなく、神幸祭、還幸祭での神輿(みこし)渡御や練りものなどの行事を含め、多彩に発展した。特に山鉾は日本神話に由来したものばかりではなく、旧約聖書や、仏教、中国故事なども題材にした。>

 非常に柔軟に、ほかの宗教を祭りに取り込んでいる。でも、よく考えれば統一性も一貫性もない。祇園祭は、それが公然と許されるおおらかな世界で、「排他的」とされる京都人の懐の深さも垣間見える。キリスト教やイスラム教など一神教の外国の方はどう見ているのでしょうか。

 祇園祭の山鉾を飾る懸装品の一つ一つが、京都の街に暮らす人と歴史を象徴している。そう考えて祭りを見ると、流行の「ダ・ヴィンチ・コード」を読むような面白さがある。八坂神社はもとは牛頭(ごず)天王をまつったのが始まりですから、「ゴズテン・コード」とでも申しましょうか。わたしは40年間、写真を撮り続けていますが、いまだに発見がある。

 <西山さんは毎年、祇園祭が繰り広げられる一ヵ月間、カメラのファインダーをのぞき、京都の街の移り変わりを強く感じてきた。>

 撮り始めたころは「来てもいいけど、カメラは持ってきたらあかんで」と言われ、神事をする片隅にちょこんと座って、神妙にしていた。それが今ではだいぶ開放的になりました。

 一方で、宵山に屏風を飾って親しい知人を招く習わし「屏風祭」は、この10年ですっかり減った。町家自体が減っているからです。屏風祭は町衆の誇りと見識のお披露目だから、なくなるのは残念。御池通の瓦屋根もめっきり減り、ビルが増えた。何百年続いた街並みも変動していく時代なのでしょうか。

にしやま・はるお 1932年京都市生まれ。立命館大中退。京都市職員時代から40年間以上、祇園祭の写真を撮り続ける。日本写真家協会会員。著書に「京都の市電」「京の女将たち 老舗の味を訪ねて」など。

[京都新聞 2006年7月11日掲載]