メニュー
 京都新聞は、観光都市京都のパワーアップを目指して企画「観光・京都おもしろ宣言」をスタートさせました。人々の価値観はいま、物の豊かさから心の豊かさに移りつつあります。京のまちは伝統、歴史、自然環境と、どこを取っても格別な魅力をたたえてきました。京都新聞はそうした魅力に光を当て、京都を元気にする紙面を多彩に展開するとともに、フォーラムやイベントの開催、伝統文化体験の案内など、さまざまな「おもしろ」企画を発信していきます。

有機的につながり合う都市

重層する歴史 嵯峨の奥深さ

花園大教授・山田邦和さん

「『衛星都市』の見方で中世の京都像はもっと豊かになる」と話す山田さん(京都市中京区・花園大)

 <古代−中世の考古学を専門にし、「平安京探偵団」の団長として学生や歴史愛好家とともに京都の遺跡巡りを続ける花園大の山田邦和教授(47)。洛中を中心に考えるお決まりの中世京都像ではなく、洛中と周辺の地域が有機的につながり、都市圏を作ったとする新たな都市像「巨大都市複合体」を提唱する。それを構成する「衛星都市」の代表格として挙げるのが嵯峨だ。「嵯峨は単に郊外ではなく、京都の観光地の中でも数少ない重層した歴史が感じられる場所。観光に生かさない手はない」と話す。>

 鎌倉から室町時代、上京と下京からなる洛中は、確かに超巨大都市でしたが、それだけでは完結しなかった。中世国家の本質は武士や天皇、寺社などいろんな権力が絡み合って民衆を支配したこと。京都も同じ。幕府に支配される洛中だけでなく、周囲には御室や伏見、南禅寺など小さな衛星都市が散らばり、いろんな権力がモザイク状に絡み合っていた。だからこそ首都でもあったんです。中心になる巨大都市と衛星都市が有機的につながり、都市圏をつくっていた。まさに中世の京都は巨大都市複合体だったんです。

 その最大の衛星都市は嵯峨。幸いに平安時代から室町時代にかけ、嵯峨の変遷を示す5点の絵図が残っていました。それらを見ると、平安時代の嵯峨にまず嵯峨天皇の皇子、左大臣源融が別荘を建てます。衰退して後に寺院になり、ここにやがて清凉寺(嵯峨釈迦堂)が建立されます。このため、同寺の境内には源融を祭るお堂がある。嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子の檀林寺をはじめ天皇の関係者が別荘や寺を築き、嵯峨は単なる農村でなく都市的な様相を示し始めました。

 <嵯峨では2年前、小倉百人一首をテーマにする観光施設「時雨殿」建設(右京区)に伴う発掘調査で、鎌倉時代に後嵯峨上皇が造った離宮「亀山殿」の庭園遺構が初めて見つかった。>

 鎌倉時代の「亀山殿」は後嵯峨上皇の遊学の場でした。上皇は、吉野から嵐山に移植した何百本もの桜をこの亀山殿から眺めて楽しみました。

 亀山殿の周囲には貴族や武士の邸宅も並び、清凉寺の前から大堰川までメーンストリートが築かれます。今の天龍寺の前の通りです。人々はそれを「朱雀大路」と呼びました。平安京のメーンストリートと同じ名。都に匹敵する大路であると人々の強い意識があったのでしょう。近くには藤原定家の別荘や法然ゆかりの二尊院もあり、亀山殿を中心とした「院政王権都市」だったのです。

 注目することがあります。当時の嵯峨と幕府があった鎌倉が似ているのです。清凉寺と鶴岡八幡宮というそれぞれの宗教施設からメーンストリートが伸び、水面へつながる。東西の王権が期せずしてほぼ同形、同規模の都市を造ったのです。鎌倉は洛中と比較されてきましたが、嵯峨と比べるとおもしろいです。

 南北朝時代に後醍醐天皇が登場して院政を否定するため、亀山殿は解体されます。室町時代にかけて嵯峨一帯は、王権都市から宗教都市の性格を帯びてきます。

 <山田さんの見解では、嵯峨の最盛期は室町時代半ばで、人口は8千から1万人。地方で言うと超巨大都市に匹敵する。このころ洛中には十数万人が住んでいたという。>

 亀山殿の跡地に足利尊氏が天龍寺を創建し、臨川寺なども建ちます。これらを中心に百数十の寺院、数百軒の民家が立ち並びました。僧侶の衣を染める紺屋(藍(あい)染屋)など寺院に関連する仕事も多くありました。しかし、応仁の乱によって天龍寺が焼けるなど嵯峨は大きな打撃を受けてしまいます。

 このように嵯峨の歴史を考えると、中世の京都像がもっと豊かになります。洛中だけでなく、嵯峨にも歴史が重層し、その奥深さを感じられるのです。鎌倉時代の「院政王権都市」、室町の「宗教都市」をキーワードに清凉寺や亀山殿跡、天龍寺などを巡る時代別の観光ルートを仕掛けるのもいいのではないでしょうか。

やまだ・くにかず 1959年京都市生まれ。同志社大大学院博士課程前期修了。専門は日本考古学、都市史学。花園大助教授を経て2003年から現職。著書に「須恵器生産の研究」「カラーブックス 京都」など。

[京都新聞 2006年11月9日掲載]