


晩夏の8月16日、夜空を妖(あや)しく彩る大文字五山送り火。京の人々は、燃えさかる炎が消えゆくさまにその夏の終わりをみる。中でも最もよく知られているのが大文字山(京都市左京区)の「大」だろう。だが、成立時期も由来も、詳しいことはほとんど分かっていない。歴史の闇に包まれた「大」の謎を追った。
送り火が初めて史料に登場するのは江戸初期。1603(慶長8)年7月16日付の公家舟橋秀賢の日記「慶長日件録」には「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」とある。そのころには、盆の時期に山の斜面に火をたく習慣があったことが分かる。
しかし、舟橋の日記には由来や由緒についての記述はない。火が「大」の形だったかどうかも定かではない。1600年代後半にやっと、地誌に「浄土寺には大文字…」の記述が現れる。
誰が、いつ、何のために−。わずかな史料しか現存しない中、研究者らは江戸期までの社会変化に「大」の謎を読み解くカギがあるとみる。
京都府立総合資料館の大塚活美専門員(46)は、送り火の成立を室町後期と推定。鎌倉期に芽生えた集落ごとの自治体制が安定し、地域ごとの力が強まるのがこのころだ。盆踊りが生まれるなど盆行事が盛大になり、火をたいて祖先の霊を鎮める行事「万灯(まんどう)」も、家庭から地域へと広がった。この大規模化した「万灯」が送り火の原型ではないかと大塚専門員は考える。
送り火についての学術論文もある京都学園大の植木行宣元教授(74)=写真=もほぼ同意見で、「万灯」が送り火へと巨大化した背景に、度重なる戦乱で生まれた怨霊(おんりょう)への恐怖があったとみる。特に応仁の乱が終わった1477(文明7)年には、地震、暴風雨、洪水、火災が続発した。「都の人々にとっては怨霊のたたり以外には考えられず、急速に高まった危機感が『万灯』を巨大化させ、送り火に発展したのでは」
祖先の霊を冥府へ送る小さな灯火(ともしび)が送り火の原型だったとすれば、それはなぜ「大」の形をとるようになったのか。
火床を受け継ぐNPO法人(特定非営利活動法人)「大文字保存会」の長谷川綉二副理事長(61)によると、地元では阿弥(あみ)陀(だ)仏が放った光明を弘法大師が「大」の字に書き改めたとする説や、足利義政が早世した子をとむらうために山に巨大な人形(ひとがた)を描かせたのが始まりとする説などさまざまな言い伝えがあるという。
ルーツを探っていると、洛中で「大」に行き当たった。東山区の六波羅蜜寺。祖霊を迎え入れるため、毎年8月8−10日に行う萬燈会では、本堂に数多くの「大」が現れる。丸い小皿に「大」の字になるように灯心を並べ、火をつけたものが百八組。本尊前にも「大」の字型の棚を置き、火のついた小皿を乗せる。
寺によると、萬燈会の始まりは963(応和3)年夏。「大」は地、水、火、風の四元素に空を加えて大自然を表した「五大」を意味し、自然への畏敬(いけい)と祖先をうやまう気持ちを象徴しているという。研究者には、この「大」の意味が次第に民衆の間に浸透し、送り火の「大」のヒントになったとする向きもある。
人間を取り巻く自然と、はるか昔から続いてきた祖先とのつながり。目に見えない大きな存在があってこそ今の自分たちがいる−。赤々と燃える炎の文字は、そんな気持ちを私たちに忘れさせまいとする、先人の「仕掛け」のような気もする。
