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初冬彩る献茶祭

神前で厳かに献茶をする表千家の久田宗也宗匠(昨年12月1日、京都市上京区・北野天満宮の献茶祭)

 10月から12月初めにかけて、京の神社では、神前に茶を供える献茶祭が次々に催され、初冬の風物詩となっている。こうした祭事は、古い伝統行事のように思いがちだが、実は今のような形の献茶祭が始まったのは明治の初めで、まだ120年余りの歴史しかない。そこには、京の茶道や茶産地の生き残りが掛かっていた。

 境内に笙(しょう)や笛の音が響き渡る中、白装束姿の若者たちが茶壺(つぼ)を収めた唐櫃(からびつ)を担ぎ、一の鳥居から参道を静かに歩いていく。古式ゆかしい御茶壷行列が本殿に到着すると、神前に供えられた壷を開封する「口切り式」が行われ、茶のほのかな香りが漂う。

 毎年11月26日に北野天満宮(京都市上京区)で営まれる「御茶壷奉献祭」。12月1日の「献茶祭」と合わせ、京都市周辺の献茶祭行事の中でも最も規模が大きく、観光客も多く訪れる。

 同天満宮の献茶祭は、1587(天正15)年の旧暦10月1日に豊臣秀吉が千利休や今井宗久らを集め、自ら点前して神前に茶を供えたという「北野大茶湯」にちなむ。

 現在、用いられるのは、山城六郷(木幡、宇治、莵道、伏見桃山、小倉、八幡、京都、山城の八産地)の茶師の手によるてん茶。献茶祭当日には、口切り式で開封した茶を濃茶、薄茶にして献茶し、境内に多くの茶席が設けられ、大茶会が繰り広げられる。

始まりは明治期

 この献茶祭が始まったのは、1878(明治11)年12月1日。茶道・藪内家の藪内竹翠紹智(ちくすいじょうち)十代家元が、初めて公開で献茶をしたのがきっかけだった。

古式ゆかしく営まれる御茶壷奉献祭の口切り式(昨年11月27日、北野天満宮)

 幕末から明治にかけて、武家に奉仕していた京の各茶家は、幕藩体制の崩壊に伴って主君の後ろ盾を失い、家の存亡が危機にさらされていた。地方の援助を求めて行脚することもあった。同時に、幕府はじめ多くの大名家に茶を納めていた宇治など京の高級茶産地も、苦境に立たされていた。

 そんな中、竹翠紹智は、これまで秘事だった献茶の公開に踏み切った。藪内家の資料によると、雅楽の音に合わせて献茶を行い、点前を規定したという。「秀吉の縁」をうたった大茶会、しかも家元自らの点前を目の前で見られる献茶祭は注目を集め、現在では京の茶家の四家元、二宗匠が毎年、交代で点前を務めている。この行事は茶家の存在、ひいては茶産地としての京を強くアピールする結果になった。

 その後、この点前に習って献茶祭を催す神社が増えた。特に茶どころ宇治では10月から11月にかけて、県神社や宇治神社などで相次いで催される。地方では、初夏の新茶シーズンに行う例もある。だが、やはり本来、口切りの季節である初冬に行うものだろう。

神聖な正月行事

 口切りは、初夏に摘んだ新茶を詰めていた茶壺を開け、石臼でひいて抹茶にして喫する儀式。茶道では、この日に炉を開く。武野紹鴎ら初期茶道の時代の作法を記した「烏鼠(うそ)集四巻書」(1572年ごろ成立)にも、「茶湯一年中の専要、口切を第一とす、主人のために正月とす」とあり、口切りは茶人にとって一年の始まりの特に神聖な行事だ。

 北野天満宮権禰宜(ごんねぎ)の中野忠雄さんは「秀吉公の縁の茶事でもあり、天満宮にとっては大切な祭事。京のお家元や宗匠の方々とのご縁により、ここまで続いてきた」と語る。神社と茶家の結びつきによる仕掛けが、京ならではの伝統行事として息づいている。

[京都新聞 2006年11月6日掲載]