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師走呼ぶ南座・顔見世

まねき看板が掛かる南座。全国で唯一「東西合同大歌舞伎」と銘打ち、向かって左(東)側に東京勢、右(西)に坂田藤十郎ら上方勢が並ぶ。今年は25日にまねき上げがある(京都市東山区)=資料写真、05年撮影

 京都・南座で歌舞伎の顔見世興行が30日に開幕する。今年は中村勘三郎の襲名披露を兼ね、例年以上に盛り上がりそうだ。京の顔見世は江戸時代から三百余年にわたり続き、大正期以降は東西の名優が顔を合わせ、名舞台を重ねてきた。師走の風物詩として定着した歴史をひもとくと−。

 出雲の阿(お)国(くに)が京で「かぶき踊り」を始めた半世紀後にあたる江戸初期の明暦年間(1655−58年)、四条河原の芝居小屋で、新入り役者が正月に自己紹介の口上を述べた。これを見た客が「今年は何人の顔見せがあった」とうわさしたのが「顔見世」の語源とされる。

 当時、役者は1つの劇場と長期契約を結び、それ以外の舞台に出なかった。それでは顔ぶれが単調になるため17世紀末、各劇場が役者との契約を1年と決め、毎年顔ぶれを変えるようになった。その初披露を毎年11月(太陽暦の明治初期からは12月)に行うようになったのが、現在の顔見世興行のルーツだ。

 上方芸能史に詳しい荻田清・梅花女子大教授(55)は「当時は正月の初芝居が最も格式ある興行で、顔見世はその前の肩慣らしの興行だった」とみる。とはいえ今風にいえばプロ野球のチームが毎年秋に解散し、選手を総入れ替えして新チームを披露するようなもの。大入りの人気を呼んだ。

形式重視の気質

 実は江戸後期までは江戸や大坂の劇場でも顔見世を開いていたが、次第に途絶えていった。役者の1年契約制度が年々不明確になり、何年も同じ舞台に立つ役者が増えたため、顔見世本来の新鮮味が失われたからだ。そんな中、京都だけは顔見世の名を残し続けた。

 その理由を、祇園町出身で顔見世を長年見続ける松竹演劇部の水口一夫さんは「形式を重んじた京都人気質が顔見世を伝えてきた」と話す。荻田教授も「そのころ京の経済力はすでに低下しており、普段は劇場もはやらなかったようだが、顔見世といえば大入りになった。冬は顔見世、という季節感を京都の人は大事にしてきた」という。

 幕末から明治にかけての京都には、四条通を挟んで南側(現南座)のほか、北側にも大劇場があった。明治元(1868)年の顔見世は南側で「仮名手本忠臣蔵」、北側で「お染久松色読販(そめひさまつうきなのよみうり)」を上演した記録があり、ふたつの劇場で顔見世が行われていた。南座、北座の名称はそのころ生まれたよう。北座は明治26(1893)年に閉館したが、南座ではその後も顔見世が続けられてきた。

芸舞妓が桟敷席に並ぶ花街総見

追随許さぬ歴史

 現在、顔見世は10月に名古屋・御園(みその)座、11月に東京・歌舞伎座でも開かれているが、いずれも戦後になって名称を復活させたもの。連綿と続く顔見世は京都だけしかない。

 全国で唯一「東西合同大歌舞伎」と銘打つことも南座顔見世の特徴になっている。東京と上方の役者が集う、いわば東西オールスター舞台だ。もともと南座顔見世の出演者は上方勢中心だったが、大正以降は東京勢も来演するようになった。

 背景には南座を運営する興行会社・松竹の成長がある。松竹は新京極の芝居小屋から出発し、明治39(1906)年に南座を買収。東京に進出し、大正期には歌舞伎座などの歌舞伎興行をほぼ独占するようになった。顔見世は松竹発祥の地・京都の看板興行だけに、大規模な興行に仕立て上げてきたわけだ。

 普通の興行では、上方勢または東京勢だけで演じることが多い演目も、南座顔見世では東西名優が顔を合わせ、スケールの大きな舞台を見せてくれる。例えば今年の顔見世で襲名を披露する中村勘三郎は江戸の大名跡。その披露狂言の「義経千本桜」には、坂田藤十郎や片岡仁左衛門ら上方の人気役者が付き合い、舞台をもり立てる。

 新人り役者の顔見せが語源だった顔見世は、こうして東西名優の競演に性格を変え、数々の至芸を生んでいる。

[京都新聞 2006年11月20日掲載]