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小倉百人一首

床面の70台の液晶モニターに、デジタル画像で表示された札を取り合う(京都市右京区・時雨殿)

 お正月遊びの定番といえば「小倉百人一首」のかるた遊び。もともとは鎌倉時代の秀歌撰(せん)だったが、江戸時代にかるた遊びと結び付いて広まり、識字率向上にも大きく貢献した。現在のような国民的ゲームに発展するまでの歴史をたどると、いくつかのステップで、京の文化人や職人が果たした重要な役割が見えてきた。

勅撰集の精髄凝縮

 小倉百人一首の原典である「小倉山庄色紙和歌」が成立したのは鎌倉前期の1235(文暦2)年。ある貴族から別荘の襖(ふすま)に張る色紙に染筆するよう求められた藤原定家が、そこに書く和歌を選んだのが始まりとされる。この秀歌撰は、室町期になると京の連歌師らに連歌会の題材として重用されるようになった。

 数ある和歌集の中で、なぜ連歌師たちは定家の秀歌撰に目を付けたのか。「小倉百人一首」に詳しい同志社女子大日本語日本文学科の吉海直人教授は「『小倉百人一首』には鎌倉前期までの勅撰和歌集のエッセンスが凝縮されており、ここから和歌の知識を広げることができる。百首という分量も初心者には適量で、当時の連歌師らは、古典への最適の入門書と考えたのでは」とみる。

 当時の連歌師は京と地方を往来して大名など有力者の子弟に和歌の教養を授けており、全国的に和歌への関心が高まっていった。こうした中、日本文化の粋である百人一首と、南蛮貿易で伝わった西洋のカルタ(カード)遊びが結び付き、江戸初期に現在の「百人一首かるた」の原型となる「歌かるた」が現れる。

京で大量に印刷

 歌かるたは、小倉百人一首の暗記のための教科書的なもので、上の句札と下の句札を2枚の札に完全に分けて書いたのが特徴。肉筆だったため値段が高く、このころはまだ一般人には手が届かない高級品だった。

 歌かるたが庶民に急速に広まるのは、元禄年間(1688−1704年)に木版技術が発達し、版彩色のかるたを安く大量に生産できるようになってから。庶民に行き渡る中でさまざまな遊び方が考案され、「読み手」も登場。遊びながら古典文学の教養を身に付けられる教育玩具として定着していった。

 吉海教授は、歌かるたの創始者が京の歌人だと言われていることや、かるた職人の多くが京に住んでいた点に注目し「京の職人の印刷技術が歌かるたの大量生産と値下げを可能にした。すでに教養人の間に小倉百人一首が浸透していたことと相まって、一気に全国に広がった」とみる。

 明治期に入ると、国民的ゲームとして全国規模の試合が行われるようになり、ルールやかるたの規格を統一する動きが出てくる。1904(明治37)年には「東京かるた会」が発足し「競技かるた」のルールを制定、従来の変体仮名から総平仮名三行書きに改めた「標準かるた」を発行した。同年には初の競技会も行われ、ゲームとしての色合いが時代を下るにつれて強まっていく。

読み札に添えられた歌仙絵さながらの「かるた始め」(1月3日、京都市東山区・八坂神社)

競技かるた人気

 小倉山庄色紙和歌から約800年、競技かるたの成立から100年が過ぎた今、小倉百人一首のかるたは家庭や学校の新年行事に欠かせない遊びとなっている。競技かるたの愛好者も増え、全日本かるた協会によると、競技人口は5万人という。

 同協会から競技用かるたの製造を請け負う大石天狗堂(京都市伏見区)では、年々製造量が増えている。ここ10年の伸びが大きく、昨年は10年前より4万セット多い10万セットを製造した。同社の前田俊行代表取締役は「競技かるたでは、百人一首の正確な知識と集中力、瞬発力が求められる。受験に役立つからと高校生が始め、楽しさに目覚めるよう」と話す。

 昨年一月、小倉百人一首ゆかりの右京区嵐山に、新たな仕掛けが登場した。小倉百人一首とデジタルエンターテインメントの出合いを打ち出した時雨殿。最新の情報通信技術を駆使し、デジタル画像を使った巨大かるた遊びが体験できる。

 新たな観光スポットとして注目され、大勢の親子連れや修学旅行生が訪れる。運営する「小倉百人一首文化財団」では「昔の歌かるたがそうであったように、現代ではゲームに、古典文学の教養を遊びながら身に付けられる教育ツールの役割が求められているのでは」と、新しいデジタルかるた遊びの意味を紹介している。

[京都新聞 2006年1月8日掲載]