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 京都新聞は、観光都市京都のパワーアップを目指して企画「観光・京都おもしろ宣言」をスタートさせました。人々の価値観はいま、物の豊かさから心の豊かさに移りつつあります。京のまちは伝統、歴史、自然環境と、どこを取っても格別な魅力をたたえてきました。京都新聞はそうした魅力に光を当て、京都を元気にする紙面を多彩に展開するとともに、フォーラムやイベントの開催、伝統文化体験の案内など、さまざまな「おもしろ」企画を発信していきます。

京の風水

目崎茂和教授が見立てた平安京の風水。下方が開けて三辺が囲まれている形は「母の子宮に抱かれるよう。子孫ができる、つまり繁栄するということです」

 1200年の時を刻んできた京の都。平安京が造営される折、古来中国の風水の思想を取り入れたといわれる。風水とは土地の形状や方位、陰陽五行(いんようごぎょう)説などを考え合わせて王城や住宅、墓の場所を定める術。その土地の良し悪しを判断し、王城などが繁栄するよう都市計画する。平安京に始まる京の街は風水の形をよく残し、後世の街づくりの参考にもされたという。京都の地図を見ながら、いにしえの人々が考えた平安京造営の知恵に触れてみよう。都の違う見方が楽しめる。

 背山臨水(はいざんりんすい)。背後に山があり、前方に海や湖沼などの水がある。「京の風水めぐり」を著した南山大の目崎茂和教授(環境学)は、「背山臨水が風水の基本概念」と解説する。中国の四神相応(しじんそうおう)の考えもこれに重なる。

 東西南北の四方向を守る青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)。キトラ古墳の壁面にこの四神が描かれており、四神が墓を守るとされてきた。平安京にも、四神が山や海、川や道などに相当する四神相応が盛り込まれている。

 目崎教授は、青龍は東山や吉田山に鴨川、白虎は双ケ丘や西山、朱雀は今は埋め立てられた巨椋池、玄武は船岡山と北山と見立てる。白虎は山陰道との説もあるが、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」と話す。

幸神社の本殿にある鬼門除けの猿の木像(京都市上京区)

 平安京の大内裏を中心に見ると、背後は船岡山や北山があり、前方は巨椋池。まさしく背山臨水で、四神も配して「”気“が大内裏に集まる」ように工夫している。

 四神を山や川に見立てるのは、都市計画が山や川を抜きにしては考えられないことの表れだ。山によって風の吹き方が変わり、水の流れが決まる。これは現代も同じだが造成で容易に変えられる。昔の人々は自然に共生する形で都市計画と繁栄を実現しており、「風水は古代科学の基本ともいえる」という。

川の流れで気も変化

 その後、平安京は豊臣秀吉によって再開発される。一番の例は御土居の建設。外敵を防ぎ、鴨川のはんらんに備えるために築かれたが、川の流れや道の位置が変化することで風水も変わる。明治以降、鉄道や高速道路の建設でも大きく変わった。

 「川の流れが変われば、人の行き来が変わる。人気という言葉があるように人の流れも”気“をつくる」。ビルが一つ建つだけで”気“は変化する。「風水はいつも変わるものなんです」と目崎教授は話す。

京都御所の猿が辻。鬼門にあたる北東角を切り込み、鬼が来ないようにしている(京都市上京区)

鬼門封じる猿の木像

 平安京と聞いて「鬼門」を連想する人もいる。鬼門の由来には諸説あるが、北東(鬼門)と南西(裏鬼門)は陰と陽の境に当たるため不安定になり、特に陰陽道(おんようどう)では鬼が出入りする方角として忌み嫌われている。

 平安京が造営される時、北東に位置する比叡山を鬼門封じとした。比叡山だけではない。上京区寺町通今出川上ル西入ルにある幸神社もその役目を担っていた。

 中川久公宮司によると、もともと社は賀茂大橋南側の鴨川近くにあり、猿田彦神をまつっていた。平安京造営の際、鬼門の北東の守護神として都を守る役割を任された。「造営の時に建てられたのではなく、それ以前から存在していて平安京を守る役割を担ったのです」と話す。本殿の東北には、烏帽子(えぼし)をつけ、御幣を担いだ猿の木像がある。

 鬼を追い払う役目の猿の木像は京都御所の北東角にも鎮座し、猿が辻と呼ばれる。築地塀を切り込み、角を欠いている。北東の一角には鬼が集まり、とがった角は鬼を刺激すると考えられた。また、鬼の角をとるとの意味もあったようだ。猿が金網で囲まれているのは、夜な夜な抜け出していたずらしたためと伝えられている。

[京都新聞 2006年1月29日掲載]