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湯豆腐 名物への道

庭園にも風情を感じながら、湯豆腐を味わう観光客(京都市東山区・奥丹清水店)

 底冷えの中、身も心も温まろうと思えば湯豆腐だ。今や冬の京都を代表する料理となり、行列のできる店も少なくない。そもそも湯豆腐はいつごろ、どのように京の名物になったのか。その道のりをたどると−。

 現存する最古の湯豆腐料理店が南禅寺(京都市左京区)の三門そばにある。江戸初期1635年創業の「総本家ゆどうふ 奥丹」。清水店(東山区)で、ぐつぐつ煮立つ湯豆腐を食していた台湾人観光客黄詩涵さん(24)は「こんなあっさりした食べ方はない」と珍しそうに話した。

素材にこだわり

■湯豆腐一通り 京都の湯豆腐料理店では「湯豆腐一通り」「湯豆腐定食」などと名づけたコース料理を出す店が多い。ごま豆腐や精進揚げ、田楽などが付き、3000―4000円が平均的。

 豆腐の起源は中国で、日本には奈良−平安時代に伝わった。遣唐使の僧が寺の食事に取り入れたという。やがて禅寺の精進料理として洗練される中、油たっぷりの中国風とは違う、あっさり味の豆腐料理が広がる。その過程で湯豆腐も生まれたとみられるが、いつ誰が考案したのかは謎だ。

 豆腐は大豆をすりつぶす手間がかかり、当初は貴重な食材だった。奥丹十五代店主の石井康家さん(66)は「室町時代に石臼の普及で量産が可能になり、料理の幅も広がった」と話し、湯豆腐も室町以降に生まれたと考える。

 江戸時代に入ると、豆腐は庶民の味になる。社寺の門前には精進料理を参拝者に出す店が増え、奥丹も多様な精進料理を出したが、次第に湯豆腐が評判に。江戸後期の「都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)」には「名物 南禅寺前 湯菽(とう)腐店」と紹介されている。

「都林泉名勝図会」に描かれた南禅寺前の湯豆腐店「奥丹」。江戸時代は「奥の丹後屋」と呼ばれていた(石井康家さん提供)

 昭和初期までは精進料理を総合的に出す店はあっても、湯豆腐料理店と名乗ったのは奥丹ぐらいだった。石井さんは「シンプルなだけに、素材にこだわらないと味がぼやける」。天然にがりを使って自店で手作りする「昔どうふ」は、柔らかい豆腐が主流の中でも、しっかりした硬さと味を残している。

戦後に店が増加

 京都に湯豆腐店が増えたのは、高度経済成長で観光が盛んになった1960年代以降。中でも豆腐店「嵯峨豆腐森嘉」(右京区)の豆腐が、普及に大きく貢献した。

 豆腐を固めるにがりが入手しにくかった戦後間もなく、同店は凝固剤として硫酸カルシウムを使い始めた。戦時中に中国を転戦した先代が、石こうで豆腐を固めているのを見て応用した。すると、にがりを使うより、つるんと柔らかい豆腐ができた。「はしにもかからぬ森嘉の豆腐」ともいわれたが、恵まれた地下水と丁寧な仕事で、柔らかく豆の香り高い逸品に仕上げ、評判が高まった。

京の湯豆腐の発展に貢献した「嵯峨豆腐森嘉」は、今も手作りだ(右京区嵯峨)

 嵯峨・嵐山で初めて湯豆腐を出したのは天龍寺塔頭、妙智院境内の湯豆腐店「西山艸堂(せいざんそうどう)」(右京区)だ。戦後、森嘉の豆腐を使って先代住職の妻が始めた。現住職の妻・島見嘉子さん(67)は「生活を支えようとほそぼそと始めたようですが、森嘉さんの豆腐の柔らかさが繊細で京都らしいと喜ばれたようです」。

 現在、森嘉の豆腐を使っていると公表している湯豆腐店は、京都に10軒前後あるが、その他の店にも森嘉の味は大きな影響を与えた。

 司馬遼太郎は「街道をゆく 嵯峨散歩」で森嘉の豆腐に触れている。豆腐が中国から伝わった経緯や森嘉の先代のエピソードを記し、湯豆腐を食べながら「あれやこれや思えば、日本文化を食っている気がしてくる」と締めくくっている。

 こうしてみると、京都の湯豆腐店には、自前で豆腐を作って出す「奥丹」のような店と、豆腐店から仕入れた豆腐を出す店の2つの流れがあるのが分かる。近年は豆腐店直営の飲食店も増え、カフェ風など新感覚で豆腐料理を味わえる店もある。伝統と、その上に立つ創造が、湯豆腐の楽しみ方を広げている。

[京都新聞 2006年2月5日掲載]