Kyoto Shimbun 1997.5.14 <リポート・信楽高原鉄道事故の真相>

赤信号で走った列車<1> 出発

 信楽高原鉄道で起きた大惨事から十四日で、まる六年の時を刻む。死者四十二人。原因や責任を問う刑事、民事裁判は審理のヤマ場を迎えようとしている。事故当時うかがい知れなかった関係者の行動と、心の揺れが、徐々にではあるが裁判を通して明らかになってきた。なぜ列車は、単線を赤信号で発車したのか。関係者の供述や法廷証言をもとに、あの時、人間がどのように判断し、どのように行動したのかを、改めて検証してみた。
(社会部 鈴木哲法)


「青に変わらない」 制御盤も異常 安全確認せず

 一九九一年五月十四日。その日は、朝から抜けるような五月晴れだった。

 衝突したJR先頭車両からロープを使っ て乗客を救
 出する救助隊員(1991年 5月14日、滋賀県甲賀郡
 信楽町黄瀬)
 信楽高原鉄道の列車運行を担当する里西孝三主任は午前八時十分ごろ、滋賀県甲賀郡信楽町の信楽駅に出勤した。ロッカー室で制服に着替え、いつものように駅務室で、会社から貸し与えられた懐中時計をNTTの時報に合わせた。

 春の交通安全運動の一環として、近畿運輸局の係官がこの日、安全対策などの査察に来ることになっていた。泊まり明けの職員から、係官が昼前に信楽駅に到着する下り列車で来ることを知らされた。

 午前十時十分、貴生川発の下り列車(三両)が定刻より約三分遅れて信楽駅一番ホームに到着した。満員に近い約二百五十人の乗客があった。改札口南側の臨時集札所は混雑し始めた。県立陶芸の森で開催中の世界陶芸祭のために特別に設けられていた。連休後の平日にもかかわらず陶芸祭は連日、人気を集めていた。 到着列車は、折り返し午前十時十四分貴生川行き上り列車として発車する予定だった。車庫から一両増結され計四両編成となった。里西主任は、列車を出発させるためホームの先に立っている信号機を青にしょうと、駅務室にある制御盤のテコを倒した。二、三度テコを倒したが、出発信号は青に変わらなかった。

 上り、下りの列車の進行方向がわかる制御盤の盤面には、なぜか下り列車が信楽駅方向に向かっていることを示す表示灯が点灯していた。

 下り列車はいま信楽駅に到着したばかりだ。次にJR草津線から高原鉄道に乗り入れるJR臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、貴生川駅を発車する前だ。信楽駅に向かって走行する列車がない以上、点灯するはずがない。

 里西主任は、駅務室とホームの間にいた上司の中村裕昭業務課長に、異常を伝えた。中村課長は制御盤を見て、信号設備工事会社から派遣されていた八木沢守係長を呼ぶように言った。

 八木沢係長はこの時、臨時集札所で乗客の切符を集める手伝いをしていた。「きょうはアルバイトが少ないので」と頼まれ、列車を降りる客に応対していた。制御盤に下りの表示灯が点灯しているのを見た後、信号機を点検するため、電気設備のリレー室に急いだ。

 信楽町役場に年金の書類を出した後、一両目で発車を待っていた信楽町牧、無職辻キサさん(74)は、運転士が「しばらくお待ち下さい」と車内放送するのを聞いた。駅員らは列車と信号機の方を行き来し、ばたばたしていた。「三、四人の駅員さんが何か心配そうな顔をして話をしておられましたが、内容まで分かりませんでした」

 時間は刻々と過ぎた。だが、出発信号は青に変わらない。里西主任はこの時、中村業務課長から「腕章を出せ」と怒鳴られた、という。トラブルで信号機が使えない場合には、代わりの運行方法として、腕章をした人間が運転士とは別に乗り込むことになっていた。

 里西主任は駅務室の用品箱から、腕章を取り出して中村業務課長に渡した。腕章を受け取った別の職員、中村業務課長、近畿運輸局の係官を出迎えに行く奥村清一常務らが列車に乗り込んだ。

 午前十時二十五分ごろ、貴生川行きの高原鉄道の上り列車は赤信号のまま、定刻より十一分遅れて発車した。だが、発車前に、行き違い場所の小野谷信号所に職員を派遣して、対向列車の位置などの安全確認はされないままだった。

 JR臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、定刻より約二分遅れの午前十時十八分、世界陶芸祭に向かう乗客ら七百十六人を乗せ、貴生川駅を発車していた。


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