Kyoto Shimbun 1997.5.17 <リポート・信楽高原鉄道事故の真相>


赤信号で走った列車<4> 前兆


 九一年五月十四日の大惨事で、信楽高原鉄道も、列車に乗っていた奥村清一常務や中村裕昭業務課長ら職員五人の命を失った。

  事故後まもなく、信楽高原鉄道が、事故が起きた十一日前の「五月三日」にも赤信号で発車していたことが、滋賀県警の調べ分かった。

 十四日と同じく、三日も、信楽駅の上り出発信号が赤から青に変わらず、上り列車は赤信号のまま発車した。

 三日は、赤信号の発車を検知して対向列車側の信号を強制的に赤にする「誤出発検知装置」が正常に作動。JR世界陶芸祭号は待避線がある小野谷信号場内に停車し、事故には至らなかった。

 11日前にも「赤」発車 誤出発装置 正常に作動

 滋賀県警は事故当時を再現、信楽駅から上り列車を
 発車させて、信号システムを調べた(1991年10月)
 「五月三日」の模様を関係者の供述や証言でたどると、次のようだった。

 三日に信楽駅で列車の運行担当をしていたのは、十四日とは別の運転主任だった。三日午前十時十四分発の貴生川行き上り列車を発車させるため、ホームの前方にある上り出発信号を青にしようと駅務室の制御盤のテコを倒した。だが信号は青にならなかった。

「えらいこっちゃ、信号が出やん」。運転主任は大きな声を上げた。信号設備工事会社から派遣された八木沢守係長は外出していて、その場にいなかった。

 信号を使えない場合、代わりの運行方法として、発車以前に行き違い場所の小野谷信号場(無人)に駅長役の職員を派遣。信楽―小野谷間に対向列車がないことを確め、信楽駅の運転主任と電話で打ち合わせた後、発車させなければならないことになっていた。

  「小野谷に、だれか人をやらんと」と運転主任が話すと、中村課長から「人がおらんやないか。だれを行かせるんや」と言われたという。

  連休さなかの祝日。信楽町で開催中の世界陶芸祭は、一日で約四万二千人の入場者があり、信楽駅も大混雑していた。三日は、奥村常務も改札の手伝いをしなければならない忙しさだった。

  列車は定刻より十分遅れて赤信号で発車した。中村業務課長は小野谷信号場のポイントの切り替えなどのため乗り込んだ。

 対向列車の信号を強制的に赤にする「誤出発検知装置」が正常に作動しても、信楽駅では、小野谷信号場の信号機の状態は分からないシステムになっている。運転主任は、世界陶芸祭号側の信号が間違いなく赤になっているか、不安だった。

 運転主任は小野谷信号場に行こうと、マイカーに乗った。道路が空いていれば十分ほどで行ける。だが、「自分は運行責任者で駅を離れてはいけない」と思い、途中で駅に引き返した。「居てもたってもいられない気持ちでした」。その時の気持ちを、運転主任はそう証言した。

 だが、発車する前、ホームにいた中村課長から小野谷信号場に行くように依頼されたという職員の供述もある。この職員は、小野谷信号場の安全確認のため車で向かったが、陶芸祭人気で国道307号が渋滞して前へ進めず、駅に戻った。中村課長に改めて相談しようと引き返したところ、列車はすでに発車していたという。

 高原鉄道列車が発車して約十五分後。運転主任は、中村課長から小野谷信号場に着いたと電話を受けた。小野谷信号場の世界陶芸祭号側の下り信号が、赤になっていたのだと分かり、ほっとした。

 惨事が起きた五月十四日、運転主任は泊まり明けで信楽駅構内でポイント清掃をしていた。大惨事となった二度目の赤信号発車について裁判で、こう話した。

 「三日に誤出発装置が働いたので、働くと思っていました」

 なぜ、十四日は誤出発装置が正常に作動せず、小野谷信号場の世界陶芸祭号側の信号が「青」になってしまったのか。


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