赤信号で走った列車<8> 過信
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見落とされた「予兆」ダイヤ順守に焦りと重圧? 世界陶芸祭に合わせ、新しく導入された信号システムではあったが、信楽高原鉄道、JR双方の打ち合わせや連絡が十分でなかったことが、事故の遠因として浮き彫りになった。 信楽高原鉄道列車は、単線の路線を赤信号で発車するという、やってはならない危険性を、なぜ、いとも簡単に踏み超えたのだろうか。 九一年五月十四日と同じように赤信号で発車した「五月三日」は、線路上の誤出発検知装置が正常に作動し、惨事には至らなかった。本来、検知装置は列車が万が一、間違って赤信号で発車した場合、安全なように設置されたものだ。 高原鉄道の運転主任は「誤出発装置が働けば、対向(世界陶芸祭号)の信号が赤になるということが頭の中にありました」と述べている。システムへの過信、油断があったのだろうか。 「定時運転に一番神経を使います。遅れると、行き違い列車や接続列車も被害を被る。列車の遅れでお客さんの商談が失敗したと聞いたこともあります」。高原鉄道の運転士の一人はこう話す。
世界陶芸祭の開催に伴い滋賀県などから輸送力アップを要請された高原鉄道にとって、連日押し寄せる乗客への対応は初めての経験でもあった。鉄道利用者は、関係者の予想を大幅に上回っていた。 事故当日、高原鉄道列車は、世界陶芸祭の乗客を乗せたJR列車と小野谷信号場で行き違うことになっていた。だが、高原鉄道列車は予定より出発時間が約十一分遅れていた。ダイヤ順守への焦り、重圧がなかったとはいえないだろう。 生存者の供述や証言では、高原鉄道の列車に乗り込み亡くなった中村業務課長=当時(54)=が、「五月三日」「五月十四日」の二度とも発車を「指示」したとされる。 五月三日に駅長役を務めた運転主任は「怒鳴られ、従わざるをえない状況に追い込まれました。それ以上言えなかった」。裁判の中でこう話している。 信楽高原鉄道の服務規程は、鉄道係員は上長(上司)の指揮命令や指示が法規に違反し、列車の運行などに危険を及ぼす恐れがあるときは、上長にその旨を述べて指揮を受けると定めている。 二度目の赤信号で発車し惨事となった「五月十四日」の里西孝三運転主任も、安全確認の必要を感じながら、発車を止めることができなかったと述べている。 信楽高原鉄道は、赤字の第三セクターで、常勤職員はわずか二十人だった。旧国鉄や近江鉄道などを退職し、第二の人生を選択した人たちが多く、男性職員の平均年齢は五十二歳だった。 中村業務課長は運転畑を歩み、旧国鉄で助役を務めた。衝突したJR世界陶芸祭号の林光昭運転士のかつての上司でもあった。 JRとどんな交渉の経緯があったのか、社内でのやりとりはどうだったのか。亡くなった中村業務課長は、生存者の一方的な話に反論することも、無念さを語ることもできない。「責任感が強い人だった」と職員は言う。 惨事はさまざまな出来事が積み重なって起きた。事故に至るまでには危険を知らせる予兆もあった。それを知り、それを生かすのも人間だ。 まる六年を迎えた十四日、信楽町で法要がしめやかに営まれた。犠牲者の慰霊碑の下の方に信楽高原鉄道職員の名も刻まれている。あの日は抜けるような青空だったが、五月雨(さみだれ)が石碑をぬらしていた。 (おわり) |