ニシン漁衰退で昆布が減少
春、海を真っ白にしたニシンの群は、産卵の海藻を求めて沿岸に近づく。海の色を変えたニシンを群来(くき)と呼んだ。そのニシンが昆布の生育にいい意味での影響を与えた。確かにニシン漁の衰退時期は昆布の減少と重なっている。 北前船で上方へ運ばれる昆布の旅仲間はニシンだった。函館で昆布、そして江差、松前でニシンを積み、船は日本海を南下した。 江差の五月は江戸にもない。ニシン漁でにぎわう江差はこう例えられた。集まるニシン船三千、海岸には茶屋など江戸両国の夜見世と異なるところない繁栄を指している。 函館から江差までは快速バスで二時間。松前経由なら五時間の道である。日本海沿いの車窓からの眺めは、あきることがない。北の海は真夏でも海水浴が一斉に引き揚げた後の初秋の憂いがある。
江差のニシンは八年周期で豊漁、凶漁を繰り返して明治を迎えた。百年前の明治三十三(一九〇〇)年までは群来があり、その後、江差から潮が引くようにニシンはいなくなる。 中歌町、姥神町は松前藩政を支えた江差の回船問屋、土蔵が軒を連ねていた。 現在の江差には数軒のニシン御殿が残るのみだ。横山家。二百年続く現当主の横山敬三さんがヒノキ材の産地にふさわしい造りの家と蔵を案内する。公開はしているが、住まいになっており、ここで珍しいそばに出合った。ニシンそば。しかし、身欠きにしんを戻して、煮付けてそばと合わせる。こんな手間はまず浜料理でかけないから、ルーツはやはり京都だろう。ただ江差には、文化年間に茶店の娘が停泊する北前船を回って豆腐、もち、そばを売ったといわれ、これが江差ニシンそばのルーツ説になっている。
濃いだしのそばをすすりながら京都の南座隣の「松葉」のニシンそばを思いおこした。 松葉が芝居茶屋から現在の看板をかけたのは明治十五年。初代主人が発案したニシンとそばの出合いの味。水で戻した身欠きにしんを竹の皮をひいたなべに並べ、米のとぎ汁でじっくりたく。さらにとろ火で煮て仕上げる。風味を損なわず、臭みを抜く工夫が伝統の味だ。 「北米産のニシンを使うようになり、とぎ汁でたくのはなくなった。北海道産と違うため、水で戻す工程は異なるが、変わらぬ味に仕上げる苦労は、発案時の初代の苦労に通じ、励みにもなる」と、主人の松野泰治さん。ニシンとそばを口であわせて、かけ込む。くせになる味。ニシンに甘味を感じたのは京風、江差のニシンそばはだしが江戸風、さっぱりしていた。 もう一軒のニシン御殿、国指定重文の中村家を訪ねた。中村家は近江商人の大橋宇兵衛が建てた総ヒノキ、切り妻造りの二階建て。入り口、店内とも北陸出身の横山家と違う。大橋宇兵衛は能登川出身、江戸時代に海産物の仲買い人で富を築き、大正初期に番頭格の中村米吉に家を譲った。五個荘でも見た近江商人の家のつくりが北の地にも生きている。 北海交易の開拓者は近江商人といっても過言でない。まだ定住者も少ない未開地の北海道に移り、松前藩と一体の開拓によって藩の財政を一手に握った。ただ近江商人は支店経営のためか、藩政と密着しても地域に根をおろしていない。
歌声がする。民謡の江差追分も船で来た。馬子歌から船歌になり、越後から北前船に乗って。 ♪沖のかもめの 鳴く声聞けば ネ 船乗り稼業はやめられぬ 江差追分資料館で実演を聞く。波のうねりように心をそそる響き。北前船の時代とニシンが目に浮かぶ。 海を見てだれかが叫ぶ。 群来だ。 海を白く埋めたニシンの大群。まぶしい夏の海のたわむれ、夢なのか。 (北海往還・完 編集委員粟津征二郎)
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